同僚との会話の記録。
私「最近、どうすれば全ての差別や不平等をなくせるか、ちょっと考えていたんですけど」
同僚「また壮大なこと言ってんな」
私「まず、収入に差があったら平等じゃないですよね。だからみんな同じ収入にすればいいと思うんです」
同僚「それはまあ、理屈的にはそうかもしれないな」
私「でも違う仕事をしていて収入が同じだと、それはそれで不平不満が溜まると思うんですよ。だからそうならないように、みんな同じ仕事をすればいいんじゃないかと」
同僚「たしかに、大変な仕事と簡単な仕事と働かない人で皆収入が同じだと文句は出るだろうな。でもみんなで同じ仕事っていうのも非現実的じゃないか?」
私「それはそうなんですが、農業ならなんとかなると思うんですよね。貧乏でもみんなで農業をやって、みんなで同じ収入になれば差別も不平等も無くなるんじゃないかと」
同僚「いや、でも収入が同じなら、真面目に働くよりもサボったほうが得になるだろ?それじゃ上手く社会が回らないんじゃないか?」
私「まあ、そういうサボるような人は、ちょっと大きな声では言えない方法でですね、ちょちょいっと、やっちゃうしかないかもしれないですね」
同僚「差別も不平等もない農業社会の実現か。俺、その実験例を知ってるぞ」
私「あ、やっぱり分かります?」
同僚「あれだ」
私・同僚「ポル・ポト」
ユートピアの形は人それぞれ異なる
私はクメール・ルージュがやったことを肯定しませんし、原始共産制で平等社会を作ることはまったく現実的ではないと思ってはいますが、とはいえポル・ポトや彼らの追究した原始共産制は確かに「差別や不平等のないユートピアの一例」であったことは間違いないでしょう。
ではそのユートピアがなぜカンボジアの地で実現できなかったか。
それは単純に、幸福の形、ユートピアの形は人それぞれ異なることへの無理解だと考えます。
貴方の幸福と私の幸福は違う、そんな当然の現実を認識せず、自身が思う幸福を他者に押し付けること、それは「余計なお世話」や「ありがた迷惑」と言わざるを得ない行為です。
以前にも記事にしたことがありますが、アンナ・カレーニナの話は物語に過ぎず、必ずしも真ではありません。現実には幸福の形やユートピアの形は人それぞれ異なります。残念ながら、誰もが合意できるユートピア像は存在しません。
理想的社会像の単一化は必ず独裁を生む
例えば、リンゴを食べることで幸福を得られる人がいて、リンゴだけを生産する社会を目指した場合、その社会ではミカンやバナナを食べることで幸福を得られる人の居場所が無くなってしまいます。
それが個人の理想の範囲であれば「余計なお世話」や「ありがた迷惑」で済みます。
しかし「一部の集団が考える理想の社会」を実際に現実社会へ実装しようとするとそれに合意できない人は必ず現れるため、その社会では否応なしに反対勢力の粛清や洗脳が必要になります。その先には全体主義的独裁に陥る以外の道はありません。
さらに言えば、極めて意地悪な例として、世の中には『他人よりも収入が多いことに幸福を感じる人』がいらっしゃいます。その人は収入に不平等がないユートピア社会では幸福を感じられないでしょう。平等なユートピアではそういった人を受容できないため、社会的・物理的な排除を行うか思想を改造する以外ありません。
それはやはり、独裁と言わざるを得ない支配形態だと言えます。
結言
もちろんユートピアを目指す試み自体は決して否定できることではなく、それはとても前向きなことではあります。「地獄への道は善意で舗装されている」と言われれば、それもまた真ではありますが。
ただ、それぞれが自らの考える幸福を求められる社会はユートピアの近似であり、そのためには単一形態のユートピアの実現を目指すのではなく選択肢を増やすことこそが望ましい社会だと思う次第です。
つまりは、リンゴも、ミカンも、バナナも、どれかしか手に入らない社会よりは食べたいものを選んで手に入れることができる社会のほうが幸福の総量は増す、そういった話です。
もう少し抽象的な表現での結論として、「誰かの考えた差別や不平等のない単一化された理想社会」ではなく、「差別や不平等に囚われる必要のない、選択肢の多い多様な社会」こそが差別や不平等を解消できるのではないかと、個人的には愚考しています。
余談
歴史好きとして、近現代史ジョークが通じる同僚がいて嬉しい。(率直な感想)