「誰が書いたか分からない記事は信用するな」はよく言われていることです。
文責が不明確な記事よりは明確な記事、無記名よりは記名記事のほうが信頼度が高いと評価するのは自然なことでしょう。
ただ、それは匙加減にもよると思っているため、それに関する愚見を記述していきます。
「誰が書いたか分かる記事は信用できる」?
情報が溢れた現代社会ではありとあらゆるメディアの全ての情報に接することは当然できませんので、個人で処理できる範囲まで受け取る情報を制約するために情報ソースを取捨選択することが必要不可欠です。
そして取捨選択するのであれば誰が書いたか明確で権威のある情報源に絞るのは現実的で合理的な判断でしょう。怪しいジャーナルよりはインパクトファクターの高いジャーナル、小規模メディアよりは大手メディア、無名のライターよりは著名なライター、少なくともそういった情報ソースに掲載されている記事は誰が書いたか分からない記事よりは信頼度が高いものです。
ただ、理想的には誰が書いたかではなく何が書かれているかを個別に判定すべきではあることも事実です。人は必ず間違える生き物であり、どれだけ賢い人であっても時には正しくないことを述べてしまうこともあります。誰が書いたかが明確であることは信頼の度合いを高めますが、その内容が真実であることを担保するものではありません。
また人には専門性が存在しており、その専門分野においての言説とそれ以外の分野に対する言説は精度に大きな差が生じます。それを考慮せずに誰が書いたかだけに着目してしまうと、思わぬ不正確な情報を信じることになりかねません。
つまるところ、
【命題】「誰が書いたか分からない記事は信用するな」
に対する
【裏】「誰が書いたか分かる記事は信用できる」
は必ずしも真ではないことに注意が必要です。誰が書いたかだけを真偽の判定基準としてしまうことは権威主義的な態度となりかねません。なにも権威主義的パーソナリティが必ずしも悪いとは断定しませんが、度が過ぎれば盲目的な権威者への追従や思考停止に陥りかねないものですので匙加減は重要かと思います。
結言
著者が明確であることは信頼度を高めることは間違いなく、しかしそれは信頼度、すなわち程度問題であって、正しいか正しくないかのデジタル的な評定をするための指標としては適切ではありません。信頼度が高い情報源から正しいであろう情報を得た後も、実際にその情報が正しいかどうかは精査する必要があります。
余談
という話を場末の小さなブログでしている、この信頼度の低さ。
実に信用できないですね。