忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「政治家」と「活動家」の違い

 常々疑問に思っていること。

 現実社会やインターネット上で見かける『対立した論争の場』において、対立意見を迎えに行こうとしない人が少なからずいるのは何故なのでしょう?

 

目的はどこに?

 論争の場において、合意や発展的な解決を必ずしも求めない人が一定の比率で存在していることは承知しています。そういった方々の目的は議論によって良い結論を目指すことではなく、対立意見を攻撃することで悦楽を得ることであり、つまりは論争することが目的です。そのような姿勢に対する好き嫌いはともかく、同意はしないものの少なくとも理屈は理解できます。

 不思議に思っているのはそうではない人々の一部、つまり議論を通して発展的な解決へと至ることを目的にしている人々のうち、議論の場で話し合いを放棄している人々の存在です。

 話し合いの落としどころを定めようとせずに話し合いをしようとするのは、なんとも理解が難しくあります。

 

話し合いの作法

 議論や話し合いでは互いの言い分を双方向で話し合う必要があります。一方的に自論を展開するのは話し合いとは言えません

 話し合いに必要なのは相手の言い分を聞いて理解することです。双方の意見を絶対的な正解だと確信してただ押し付け合っていては結論を調整することが出来ず、話を前に進めることが出来なくなってしまいます。

 つまりは言葉の字面通り、読んで字の如く、ということです。話し合いとはこちらの言い分を押し付けることではなく、話し合いであり、すなわち相手の話を聞かなければならないのです。これは話し合いにおいて絶対に必要なルールです。

 「相手は間違えている、こちらの知っている正解を教えてあげなければならない」というような姿勢を取った時点で話し合いは崩壊します。必ずしも相手の意見を受け入れる必要はありませんが、相手の話を聞き、それを理解することは必須です

 「話し合いましょう」「話し合いが重要だ」と言いつつも人の話を聞かずに自分の意見だけを押し付ける人を時折見かけることがあるとは思いますが、その人は実のところ話し合いをしていないということです。

 

 相手の言い分を聞いて理解するとは、対立意見を迎えに行く姿勢を見せることです。

 迎えに行くとは自論を曲げることや相手方の言い分を全面的に呑むことを意味しません。何はともあれ一度は相手の言い分を聞き入れる、それを受け入れるか拒絶するかは別として、まずはキャッチする、そういった態度を指します。

 その姿勢を僅かでも見せない人は真っ当な話し合いの場に立つことができません。相手からすればそもそも話を聞く気が無い人に話しかけるだけ時間の無駄だと判断されるためです。

 

「政治家」と「活動家」の違い

 民主主義的な議論・話し合いにおいては多数派を構築することが必要です。大勢が納得できる結論を導き出せて初めてその結論を集団の意思決定とすることができます。

 その理屈に従えば、『対立した論争の場』で取るべき戦略は自論を強固に押し出すことではないはずです

 何故ならば、対立した論争の場では複数の意見がすでに形を持っているものであり、参加者も傍観者も「どういった意見があるか」ではなく「どの意見に賛同するか」へ焦点が向いています。つまり、自論への賛同者はすでに飽和へ近づいている状態です。

 その状態で自論を強固に押し出しても賛同者を増やすことは難しくあります。それよりは対立意見を迎え入れて、可能であれば妥協点を探り出して取り入れること、数の少なくなった無意見層へ働きかけるのではなく対立相手を味方に付けること、その方が賛同者を増やすことに資するものです。

 このように意見の対立において双方が納得できる落としどころを模索する行動が「政治」であり、それを行うのが「政治家」です。対して、落としどころを模索せず自論を強固に押し通そうとすることを「活動」と言い、それを行うのが「活動家」です。

 

結言

 「活動家」のやり方を必ずしも否定するわけではありません。問題を周知する段階では大きな声で喧伝することが重要であり、その際には「活動家」の存在が不可欠です。

 ただ、少なくとも民主的な集団における議論の場では「活動家」ではなく「政治家」のやり方が必要です。「活動家」のやり方はその前段階、議論の場を生み出すことに価値があります。それぞれは問題解決の各段階で別の役割がありますので、上手く住み分けられるといいのですが。