信念と理念はどちらも「あるべき姿を希求する考え」を示す似た言葉ですが、少しニュアンスが違います。
信念とは「正しいと信じる自分の考え」であり、理念とは「こうあるべきだという根本の考え」です。
言い換えれば、信念とは自らの心に基づいた感情的なものであり、理念とは原理原則に基づいた論理的なものです。
物事を成し遂げる上において信念と理念はいずれも必要不可欠なものですが、個人間のやり取りでも社会運動でも政治活動でも変わらず、他者を説得することを欲するのであれば信念ではなく理念に基づくことを推奨します。
共有の可否
これは比較的簡単な理屈で、”信”は他者と共有できず、対して”理”は他者と共有できるためです。
自分を理解するためにせよ、他者に伝達するためにせよ、心は言語によって翻訳しなければ理解できません。他人の心を完全に読み取ることができる人なんていませんし、自らの心ですら正確に理解している人は少数派です。
人は心に基づいて動く生き物ではありますが、それは感情や心が自らの完全な制御下に置かれていることを意味するわけではありません。むしろ時には心こそが支配者であるかのような振る舞いを見せることすらあるでしょう。
翻訳と言うとどうしても自然言語間の変換、例えば英語を日本語に変えるような行為を想定しがちなものですが、広義の「翻訳:translation」は「何かを何かに変換するプロセス」を意味する言葉です。
よって自らの心が感じている思いや心情を他者に伝達可能な自然言語へ変換する行為も広義の翻訳に当たります。
そして理とは「物事の筋道」であり、万人が理解できるような共通形式の「ことわり」を意味する言葉です。
つまり理とは他者に伝達するための言語に他ならず、自らの心や思考を言語化して理論立てることは翻訳行為と同義です。他者へ情報を伝達して説得するのであれば他者に伝わる形式へ翻訳することが必要であり、その形式こそが理論だと言えます。
信のままでは正確に伝わらないので、誰もが分かる理に翻訳する必要がある。
これを換言すると、「他者を説得することを欲するのであれば信念ではなく理念に基づく必要がある」となります。
結言
信念を軽んじているわけではありません。
理念とはその信念を生み出した心を言葉に翻訳したものであり、理念の根底にあるのは信念です。
よって信念を持つことは重要ですし大切なことですが、ただ、そのままでは他者には伝わらないので適切に言葉へ翻訳をする必要があります。
昨今はコミュニケーション能力の一つとして「言語化力」が謳われていますが、今回の話はまさにそういうことです。心で思っていることを言葉にする能力こそが他者に自らの思いを伝達する根源的な力となります。
余談
共感に働きかけて"理"ではなく"信”で他者を動かす方法もありますが、それは昨今のデマ情報の拡散やオルタナファクトのことを考えればあまり社会的に適切な手法ではないと私は考えています。