『権力の生産』
これはあまり日本では馴染まない概念かと思いますが、この概念を知っていると欧州の国際的な強さが分かりやすくなるかと思います。
権力の定義と発生
一般に「権力」の言葉が用いられる際は政治がトピックである場合が多いため、権力には高低・善悪・良否・損得といった概念が連想されがちなものです。
しかしそういった付随的要素を省いた辞書的な「権力」とは「他者或いは他の集団に対して行動を強制する能力」を意味する言葉です。よって政治的権力に限らず愛情や友情、信頼や金銭など様々な要素を用いて他者に行動を強制すればそれは権力となります。親が子どもへ教育をすることも上司が部下へ命令することも広義の権力に該当します。
原始的な権力は自然に生じます。
二人以上の人間が集まって集団を構築すればそこにはなんらかの権力性が生じますし、集団の規模が大きくなればそれだけ権力の大きさも追従します。
また権力には可変性があります。
私たちはつい王権神授説的な権力、すなわち絶対的で固定的な権力を誰かが保有しているようなイメージしがちなものですが、実際には民主主義国家を見ると顕著なように政治権力は常に支持率に基づいて可変するものですし、それは専制国家でも同様です。
権力者は集団の支持と協力を受けてこそ初めて権力を行使できるのであり、集団の構成員が従わければ如何な独裁者であっても権力を行使することはままならず、権力は必ず縮小します。
欧州の権力に関する理解深度
近現代の国際社会において最も権力を持っているのは欧州です。経済力や軍事力で言えば欧州よりも北米やアジアのほうが強力な側面はありますが、アメリカは独自進化したものの欧州文化の系譜であり、またアジアは国際的な権力を握っているほどではありません。国際政治を差配しているのは今なお欧州及びその系譜であることには疑いようがないでしょう。
なぜ欧州が経済や軍事で最先端を維持できなくなっても国際的な権力を持ち続けているかと言えば、彼らは仕組み・ルールを作ることに長けているためです。
これは年配の人であれば経験的にも肌感覚的にもよくご存知だと思います。条約・産業・経済・スポーツなどなど、彼らは自分たちが勝てるルール作りを得意としています。ルールの中で勝てるように努力するよりも、ルールそのものを変えて勝てる土俵を構築することを指向していると言い換えることもできるでしょう。
ルールとは他者に行動を強制する力そのものであり、ルールを構築する欧州のこの力こそがまさに権力です。
もっと率直に言えば、彼らは既存の枠組みによって得られる権力を獲得するのではなく、必要に応じて枠組みを変えることで権力を生産しています。それは彼らの権力への理解が深く、権力とは「自然発生するもの」かつ「可変的に増減するもの」だと適切に認識しているからこそできる芸当です。
結言
権力をもっと概念的に言えば、権威によって付与されるものが権力です。よって権威者とは権力の生産者となります。
権力者が権力を行使できるのはその行使者が権威を同時に保有しているか、或いは権威者からの付託を受けているからです。身近な例で言えば、職場の上司が部下に権力を行使できるのは会社が上司に上役としての権威を付与しているからに他なりません。
国家の権力も同様にかつては教会や尊い血筋の一族といった権威者によって付与されることが一般的でしたし、それは今なお多くの国で継続されています。イギリスや日本のような立憲君主制、キリスト教やイスラム教の指導者による権力者の指名はその代表的な事例だと言えるでしょう。
欧州はそういった付与的権力から『権力の生産』に一歩踏み出した文明圏だと言えます。権力の本質を理解し、適宜必要な権力を構築することで自らの優位性を確保すること、権力を生産できる権威者のポジションに自らを置くこと、そういったことへの認識を持っていると欧州が国際社会で強い存在感を持っていることへの理解が深まるかと考えます。
余談
権力を生産できる権威者の立場が可変的であることは必ずしもベストとは言えないことにも注意が必要です。
権威者による権力の付与は権力の膨張を抑える効果があり、立憲君主制の強みは国内の混乱があっても権力闘争のみで収まることに尽きます。権威者と権力者がイコールとなると権力の上限無き生産によって無制限に権力が暴走することを招きかねませんし、そのような権威の奪い合いは権力闘争よりもよほど血みどろの抗争を引き起こします。
余談2
権力とはある意味でお金と同様です。
お金の発行権を持っていると必要に応じてお金の発行量を調整することで物価やインフレ率を調整することができます。しかしお金を発行し過ぎれば価値の暴落を招きます。
権力も同様、その生産権を持っていれば有益ですが、無軌道な生産は権力の失墜を招きます。お金の発行権と同様にどこかでストッパーが必要です。