当ブログで度々言及してきたものの、しつこくとも伝えたいこと。
悪の外部化
この世には善と悪があります。それはまごうことなき現実です。大抵の場合は白黒まだらに入り乱れたものですが、少なくとも白と黒、そしてそれらが混在したグレーが存在しています。
よって何かしらを悪と認定することは常識的な行動です。
なにより個人や社会に対して不利益をもたらすものを悪とみなして除外する行動は個人の安全性や社会の安定性に必要不可欠な行為であり、悪を放置していては悪の助長を招き個人や社会の健全性を損ねる結果を招く以上、悪を排除するよう人々や社会が志向するのは自然の流れだと言えます。
しかしながら、「何かを悪と認定する行為」と「何かを絶対悪と認定する行為」の間には極めて大きな間隙が存在しており、これらを一緒くたにすることは危険です。
前者は普通の行為であり、後者はむしろ戒めるべき行為に他なりません。
何かを絶対悪と認定すると、その絶対悪と対峙する認定者は『絶対善』の立ち位置となります。そうでなければその何かを『絶対悪』とは呼称できなくなる以上これは必然です。
そしてそれは、嫌味な言い方をすれば本来誰しも持っている自身の悪徳性すら外部に押し付ける行為となります。言ってしまえば悪の外部化です。
悪の外部化を果たした個人や集団は自らの振る舞いを省みなくなります。なにせあちらは『絶対悪』であるから言動の全てが誤っており、こちらは『絶対善』であるから言動の全てが正しい、そのように認識されるためです。
その結果、『絶対悪』と対峙する人々は相手の言い分を一切聞き入れる余地がなくなります。『絶対悪』の言い分は絶対に誤っていると認識される以上、理のある言い分だろうと合理的な弁明であろうと現実の証拠であろうと受け入れることは論理的にできません。
それは話し合いの積極的拒絶と同義です。
そうして『絶対悪』を認定する『絶対善』は民主的交渉の余地が一切無い独裁者や専制君主と同様の振る舞いをみせることになります。
第三者からすれば、話し合いを拒絶する個人や集団は民主的交渉を拒絶する悪徳性を保有することになります。少なくともそのような人々は善性側ではないでしょう。
しかし『絶対善』の為す行為は全て善でなければ認知的不協和が生じる以上、それは当人たちからすれば正しい振る舞いであり、そういった振る舞いに疑問を持つこともできなくなります。
そして「我々は話し合いを求めているが、相手がそれを拒絶している」とした認知バイアスに陥ります。現実には話し合いを拒絶している側であってもです。
結言
「何かを悪と認定する行為」をすべきでないと言いたいわけではありません。冒頭で述べたようにこの世には善と悪があり、悪を適切に排除しなければ社会の健全性を保つことはできません。
ただ、「何かを絶対悪と認定する行為」は控えなければなりません。それは自らの振る舞いを省みることができなくなる副作用を持つ劇薬であり、巨悪を討つために自らが巨悪へと変貌するような仕草は避けたほうがよい、それだけの話です。
相手を『絶対悪』と認定することは、見方を変えれば『善を独占する行為』です。嫌味な言い方となりますが、それは少し傲慢が過ぎるのではないでしょうか。