八方美人を推奨するわけではないけども。
実はアドラーはちゃんと読んでない
おそらく10年くらい前にベストセラーとなった本の影響か、今でもよくネット上で見かける「嫌われる勇気」について。
この本は読んでいないので具体的な内容はよく分かっていませんが、各所で読み聞いている感じですと「嫌われる勇気」とは概ね他人のためではなく自分のために生きることを推奨しているものかと思われます。
「他人の欲求を満たすための存在」になるのはもちろん良いことではありません。自分の人生が向かう先もその末路も誰かが代わりに責任を取ってくれることはありませんので、自らの人生の手綱は自らで握り続ける必要があります。
よって他人のためではなく自分のために生きることを志向するために「嫌われる勇気」の考え方は有益でしょう。
ただ、「嫌われる勇気」という言葉が少し独り歩きし過ぎているような気します。
この言葉は時に「他者から嫌われてもいい」とまで飛躍して用いられているのを散見しますが、実際は「嫌われる勇気を持つ」ことと「嫌われてもいい」ことの間には少しばかり隙間があるのではないでしょうか。
手綱を握る腕力
たとえ他人に嫌われたとしても人生の手綱を握る決意を持つことは何も悪いことではありませんが、ただ、他人に嫌われていると「他人が欲求を満たしてくれる」ことも無くなります。誰しも嫌いな相手を満足させようとは動かないのだからこれは必然です。
手綱を手放しそうになってしまった時、そっと救いの手を差し伸べてくれる人はその誰かを嫌っている人以外です。
よって多数の人から嫌われている人は自らの欲求を個人で完全に消化しなければならず、それは才覚に溢れた人物であれば可能でしょうが普通の人には少し難しいのではないかと考えます。
また、残念なことに嫌いな人の足を引っ張ることを好む人もいます。
そういった他者の手綱を引っ張る人を振り払って自らの人生の手綱を握り続けるためには相当な腕力が必要であり、それはやはり普通の人には限度があるでしょう。少なくとも他者から余計な茶々を入れられない程度の関係性を築いておいたほうが自分の人生を生きやすくなるかと思います。
結言
つまるところ、「他者に嫌われる勇気」を持って自らの手綱を握る姿勢は必要なことですが、それは実際に他者から嫌われることとイコールではないと考えます。
他者から嫌われると不要な摩擦が生じて自らの手綱をグリップできなくなるリスクがある以上、嫌われないほうが嫌われるよりもよほどマシです。
要するにこれは程度問題の一種であり、
◆他者から好かれようと自分の人生の手綱を手放すこと
◆自分の手綱捌きに固執して他者から嫌われること
の間にある、程よい塩梅を目指す必要があると私は考えます。
簡単に言えば、「嫌われる勇気」を持つことは重要だが「率先して嫌われる必要は無い」、そんな話です。