忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

失敗に対するレジリエンスの差は善悪ではない

 都知事選のニュースが活発になりつつある昨今。

 私は5月に東京都へ越してきたばかりなので選挙人名簿に登録されておらず、おそらく都知事選での投票権はもらえません。

 それはまあ、この手のルールが無ければ住民票を組織的に移転させるような不正工作が行われかねません。不正投票の防止に一定の効果があると考えられている以上仕方がないことです。

 ただ、蚊帳の外となるのはなんとなく寂しい感じです。

 

民主主義を愚弄する権利

 今回は権利が無いとはいえ、住んでいる地域の選挙にはある程度の関心を持つようにしていますので都知事選の情報も見聞きするようにしています。

 

 まあ、なんと言いますか、今回の都知事選はいつも以上にお祭り感がありますよね。

 あえてのとてもポジティブな表現ですけど。

 

 この「良く言えばお祭り感」のある状況に関しては各所で是々非々が問われていますが、私は是の側です。民主主義を維持するためには自由が大切だと捉えていますので、不真面目な候補者が立候補することは大した問題ではなくただただ有権者が賢く選んでそういった候補者に投票しなければいいだけだと思っていたりします。

 たとえ民主主義を愚弄するような立候補者の存在があったとしても、そういった個人の自由を抑制することも民主主義を愚弄する立候補者と同程度に民主主義を毀損するものだと考えます。少なくともルールを満たしているのであれば今回は許容し、度を過ぎていると大勢が感じるようであれば協議の上で次回までにルールを改訂すればよく、少なくとも今回は通すことが必要です。

 

民主主義は失敗を前提とした仕組み

 とはいえ「お馬鹿さんを立候補させるな」と憤る人の気持ちももちろん分かります。不適切な立候補者の存在は諸々の損失となりますし、少なくとも合理的ではありません。

 この辺りの考え方の違いは人々への信頼とレジリエンスの差、すなわち個人差に過ぎない話ですので是々非々双方の意見が有って良いと思います。

 ともかくこの差異は善悪で峻別するようなことではありません。不適切な候補者を肯定する人も否定する人もそれぞれの考えがある、それだけです。

 

 民主主義とは最適解を選び最大効率を実現するものではなく、たとえ失敗しても挽回できる仕組みです。不適切な人が当選する失敗が起こり得るものであり、しかしそれを次の選挙で落選させることができる仕組みです。

 独裁や専制は「指導者の選定を一度間違えたら取り返しがつかない」ものであり、民主主義はその制度的欠陥を改善する代わりに「最適な人を選定できないリスク」「不適切な人によって一定期間悪政が行われるリスク」を負っています。

 失敗はするが致命的な失敗は避けられる、その失敗は受け入れなければならない、民主主義とはそんな我慢を求められる制度です。

 

 私は不適切な候補者がきっと選ばれないと信じていますし、たとえ不適切な候補者が選定されたとしてもそれは投票者のレベルが選挙に反映された結果であり、それに伴う損失は民主主義が支払うべきコストだと考えます。

 対して、人々を過度に信頼せず事前に不適切な候補者を排除しておくべきだとする考え、それもまた一つの道理ですしそういった気持ちは理解できます。

 

 民主主義は失敗を前提とした仕組みですが、その失敗へのレジリエンスには個体差がある。それは自然なことです。何事にも許容度は個人差があります。それを無理に力づくで統一しようとしてはそれこそ強権的な思想になってしまうことでしょう。

 

結言

 つまるところ民主主義は、失敗を嫌う人とはどうにも相性が悪い仕組みだったりします。民主主義は失敗することを前提とした仕組みであり、完璧主義者には少し不向きです。こればかりは失敗に対するレジリエンスの個人差でありどうにもなりません。

 ただ、少なくともその差は善悪の差ではありませんので他者を責める必要はありません。受け入れられる人と受け入れられない人が互いに綱引きをして、適宜ルールを調整すればいいだけの話なのですから。