忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

主義主張なんてものはそれこそ趣味の問題である

 

 私は建設的な議論や生産的なディベートを好みますが、非建設的な口論や非生産的な口喧嘩をあまり好みません。

 これは単純に趣味の問題です。

 私は「公」と「私」を明確に分けたがる嗜好を持っていますので、オープンな場へ公開する見識は公益が優先されて然るべきだと考えますし、逆にクローズドな場であれば私益を求めればいいと思っています。そして紙面やネット上などで他者と論を交わすとなればそれはオープンな場ですので、公益に適う建設的で生産的な論を提供する必要があると考えます。

 

全体主義・利己主義・個人主義

 慣用的な意味での全体主義は個人を束縛しますが全体としての機能性を高めます。この度が過ぎればナチスドイツやソビエト連邦のような惨劇へと至るでしょう。

 慣用的な意味での個人主義は個人の自由を高めますが全体としての機能を損ねます。この度が過ぎれば現代先進国のような社会分断や福祉の機能不全を引き起こすでしょう。

 それぞれに長短や功罪がある以上、どちらかへ傾倒するのではなく良いところ取りをして悪いところを除去することが合理的です。

 要するに、それぞれが自ずから律して公私混同を避けることこそが現代の先端的価値観だと私は考えています。

 それは利己主義とは異なる意味での個人主義です。

 慣用的な意味での個人主義、すなわち全体や集団へ配慮せずに自らのみを重視する姿勢は正しく言えば利己主義であり、個人主義とは異なります。

 個人主義とは「公」のために「私」を捨てる全体主義とも、「公」を捨てて「私」のみを求める利己主義とも異なる考え方です。それは「公」における「私」を明確に確立する思想であり、すわなち公私混同を避けて「公」と「私」の領域を明確に区分するところにその意味があります。

 「公」においては公益のために働き、「私」においては私益のために動く。

 全体主義と利己主義の罪を適切に隔離して功のみを抽出するための考え方が個人主義です。

 もちろん個人主義はあまりに多義的な言葉となっているため、これが絶対的な定義だと主張するつもりはありませんが。

 

自らの命を賭ける人間は他者の命も同様に賭けのチップとする

 主義主張なんてものはそれこそ趣味の問題である、これも私の中に通底する考え方です。自らの主義は可変的に中道を保ち、同時に他者の主義がどのようなものであっても公私の区分さえ為されていればそれは私益の範囲内であると考えます。

 私の個人主義も、その是非を論じて争うほどの価値があるものではなく所詮は趣味に過ぎないものです。

 

 私は主義主張を「人生を賭けるほどに価値のあるもの」とは考えません。

 それは対象の神格化に他ならず、すなわち宗教と同義だからです。

 そして人の思考のデフォルトは等価性や公正世界仮説に支配されており、人は自らが人生を賭けているのであれば他者も同様に人生を賭けて当然であると誤認するようになっています。

 つまり『撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ』が『俺は撃たれる覚悟があるから撃っていい』と転じるのは人の思考にとって実に自然な流れです。

 その結果、教義に殉ずることを是とする信仰心は容易に「自らの信仰たる目的のためであれば如何な手段も正当化される」と考えるようになります。

 すなわち、狂信者によるテロリズムと主義主張に基づく破壊活動は本質的に同じものです。信仰の対象が神かイデオロギーかの違いに過ぎません。

 よってイデオロギーの信奉者は必然的に血で血を洗う宗教戦争を引き起こします。

 

 それを避けるためにはイデオロギーの価値を低く見積もること、すなわち主義主張なんてものは個人の趣味の問題に過ぎないと矮小化することが効果的です。

 虚飾を剥ぎ取り本質に従えば、互いの命をチップとする行為は非倫理的です。そのような惨事へ至らないよう人類は文明と倫理と法律を発展させてきたのであり、わざわざ先祖返りする必要はありません。

 

結言

 私のこの主張もまた趣味の範囲であり、またそうあるべきです。

 他人の趣味には口を出さないこと。

 主義主張は「公」ではなく「私」の範囲であり、また「私」においてのみ追求すべきものとすること。

 それらが平穏への道標となります。

 私益の伴わない主義主張を「公」のものだと考えることは全体主義であり、個人への侵害行為に他なりません。

 私益に基づいた主義主張を「公」へと侵食させることは利己主義であり、社会の不安定化を招く公共にとっての悪です。

 それらはやはり、無益で有害な先祖返りではないでしょうか。