似て非なるものか、何かしらの類似性はあるか。
ポピュリズムVSエリーティズムと陰謀論
ポピュリズムは陰謀論と並立的に語られることが多い政治的立場です。それは陰謀論の典型的な物語である「一部の支配者層・エリート集団による民衆の支配」といったストーリーラインとポピュリズムの相性が良いためかと思われます。
ただ、陰謀論者の多くがポピュリストであるかと言えば一概にそうとは言えないと私は思っています。
世の中には優越感や使命感を元にして陰謀論へハマる人もいます。
「愚かで無知な人々が知らない世界の裏を自分は知っている、自分は優れており、選ばれた人間であり、敵と戦わねばならない」
雑に言ってしまえばこのようなナラティブです。もちろん統計的なデータがあるわけではありませんので多数派と言えるかは分かりませんが、少なくとも傾向としては有り得るでしょう。
この物語の構造は、例えば民主的な選挙において「有権者は愚かだ」「学力テストなどで立候補に制限を」といった発想、率直に言ってしまえば選民思想やエリート主義に近い構造を持っているとも言えます。ポピュリズムという言葉は乱用され尽くしていてもはや厳密な定義ができない言葉となっているものの、少なくともエリート主義と対立する思想をポピュリズムだと定義すればポピュリズム的な物語ではありません。
陰謀論がポピュリズム的かエリーティズム的かを区分することが今回の目的ではありません。むしろポピュリズムだろうとエリーティズムだろうと陰謀論に堕ちることがある、そういった話です。
論理は客観的なデータを基に
実の所、特定の思想信条がどうこうではなく、その思想信条を成り立たせるための論理の組み立てに問題があるから陰謀論になるのだと私は思っています。
ポピュリズムのストーリーの骨子である「一部の支配者層・エリート集団による民衆の支配」は、では具体的にどのような支配者層・エリート集団が実在しているのか、それはどういった論拠に基づくものなのかは提示されません。人々を支配する闇の勢力が実在することを前提としてしまっているため論証が飛ばされています。そして仮定を土台にして構築した物語はそれがデータによって証明されるまでは仮説のままです。
エリーティズムの構造も同様です。「愚かで無知な人々が知らない世界の裏を自分は知っている、自分は優れており、選ばれた人間であり、敵と戦わねばならない」との物語は、それらの前提となる事柄に対する論拠がありません。
強いて言えば人々が愚かで無知であることは事実です。何故ならば人々の集団は群集心理や集団浅慮といった知性を劣化させる特性を持っているためです。
つまり集団の意思決定は集団の知性の合計ではなく、むしろ平均ですらなく、大抵の場合は集団の個々人が持つ知性以下の低劣な意思決定しか下すことはできません。それを無視して集団を擬人化し、その擬人化された存在を構成員に写像することは論理的に不適切です。
しかし「自分が優れていて選ばれた人間」かどうかは論証されておらず、敵が何かも客観的に定義されていません。
陰謀論もまた定義が固定された言葉ではありませんが、一般に偏見や不十分な証拠に基づいて組み立てられた論理を指す言葉です。
その定義からすれば、どちらのストーリーラインも実に陰謀論的だと言えます。
結言
要するに、主義主張それ自体は何かしらの特徴や陰謀論に染まりやすい傾向を持っているわけではなく、どのような主義主張であろうともデータに基づいて正しく論理を組み立てなければ陰謀論に陥る危険がある、そういった話です。
重要なのは論理性や思考回路であり、陰謀論を主義主張の問題だと捉えると要らぬ落とし穴にハマることになるので注意が必要です。