差別の本質は”違う”ことにある。
貴方と私は”違う”から差別が生まれる。
これは一般論として妥当であり、納得感のある言葉だと思います。
自分や自分の所属する集団と異なることを理由に攻撃や排除の形で現れるものを差別と定義するのであれば、違うことこそが差別の根本原因だと考えるのは自然なことでしょう。
ただ、では私たちはどうすればいいのでしょう。
差別の解消を謳うこと自体は立派ですし必要なことですが、そのための方法論が無ければ真に差別を解消することはできません。
例えば差別の原因たる”違い”への根本対策として、”違い”を無くす、そういったことは現実的かつ効果的でしょうか?
違いを無くすことは不可能
身も蓋もない話ですが、違いを無くすことは不可能です。
SNSなどを見ていれば分かるように、人は他者と識別可能なオンリーワンたる個人としてのアイデンティティを確立したいとした欲求を持っているものであり、それは換言すれば他者とは違う存在になることへの希求です。他者とは違う存在になりたいと思う人が巷に溢れている中、その真逆たる他者との違いの無い存在への方向性を示しても合意を得ることは難しいでしょう。
さらに言えば、心理的どころかそもそも物理的にも違いを無くすことなんてできません。容姿や性別、生まれや能力、ありとあらゆる事柄を均質化できると考えるのは夢想が過ぎます。その違いを無視しようとすることは見て見ぬふりの極地であり、結局は差別の解消に資することのない現実逃避に他なりません。
また、違いを無くすことも状況によっては差別になり得ます。
それこそ例えばアイヌや琉球の人々に「私たちは同じ日本人、違いなんてないさ」と述べることは文化的な排除行為に他ならず、明確に差別的な行為だと言えるでしょう。
そのような事例を考慮すれば、”違い”を無くして同じになる方向性は必ずしも差別の解消とはなり得ません。
つまり、”違い”があることを差別の根本原因と定義すること自体が誤りです。"違い”が差別の動機となることは考えられますが、原因ではありません。
違いは否応なしに存在するものであり、その現実を無視して同質化しようとすれば必ず軋轢としての差別が生じます。”違い”自体の解消は差別を解消するための役に立つ場合もあれば、役に立たないどころか新たな差別を生む温床ともなり得る以上、"違い”そのものを責め立てても意味がないでしょう。
結言
本当に差別を解消することを志向するのであれば、違いを無くすといったシンプルな解決策を謳うのではなく、地道な微調整を諦めず泥臭く実行することです。
利害関係者の都合を提示し合い、互いの事情を斟酌して落としどころを探る行為を私たちは政治と呼びます。
つまり差別を解消するためには原則的に異なる個人や集団の同質化を図ることではなく、双方の不満を吸い上げて斟酌し合い落としどころを探る政治をすることでしか成し得ません。差別を解消するための近道や万能薬はどこにも存在せず、個別の状況に合わせて調薬をする努力だけが差別の解消へと近づくことのできる唯一の道です。