ゆきにー (id:yuki_2021)さんが哲学的な着眼をされていたので、引用させていただき個人的に思うところを述べてみます。
うまく言語化できるか分からないけど、幸せって多分、こんな感じで自分の存在を周りの世界と相対化することで見つかることなんじゃないかと思う。僕らはいろんな知識や情報に毒されてしまっていて、幸せに条件を色々とつけたりするけど、本当はそういう幸せって自分の中にあるんだろうなーと思う。
快不快のセンサー
幸福や不幸、もう少し広範な表現を用いるのであれば快不快、これらは実感的な認識からすれば特定の物質・状況・状態に依存すると思い込んでしまいがちです。あれがあるから幸福、こんな状況は不幸、このような状態は幸せ、そんな風に。
しかし快をもたらす物質が常に快をもたらすわけではなく、好ましい状況が常に好ましい感情をもたらすわけでもなく、不快な状態が常に不快な状態だとも限りません。
実際にはそれらに接した際、私たちのクオリア(質感)が快不快を定めます。その点からして「幸せの質感」は実に的確な表現だと思います。
クオリア(質感)とは私たちが日々知覚している質的特性を意味する言葉です。説明が少し難しい概念ですが、痛みや味、色などで説明されることが多いでしょう。
例えば甘いリンゴを食べた時、そのリンゴが「どのように甘いか」の質的感覚を他者に説明することはできません。糖度を測定して定量的に説明しようが、他の食べ物と比較して相対的に説明しようが、そのリンゴを自分がどのように甘いと感じたかの質感を共有することは不可能です。
色も同様に、赤い色を見た個人がその赤さをどう赤いと感じているかはやはり他人には分かりません。私たちは赤をこの色だと受け取っていますが、他の人は赤をこの色で見ているかもしれず、それは識別不可能です。「赤というのはこの色だよ」と言ったとしても、「そうだね、赤はこの色だね」となるだけで、この主観による質感の差を比較することはできません。
クオリア(質感)とはこのような主観的・意識的な感覚を言います。
幸福と不幸、快と不快、これらも質感に依存するものです。
快不快は特定の物質を摂取した場合、特定の状況に浴した場合、特定の状態に為った場合において定量的に獲得できるものではなく、その時々の感性がどのような質感として受け取るかによって変わります。それがどれだけ快か、あるいはどれだけ不快かは個人のクオリア次第です。
つまり、快不快は自動的かつ受動的な反応ではなく、実際にはある程度の範囲で取捨選別が可能な意識的で能動的な反応ですらあります。幸福な出来事はそれそのものが幸福なのではなく幸福だと感じるから幸福なのであり、その感じている質感は己の内側にのみあるものです。
結言
幸福や不幸、快や不快は自らの質感次第です。もっと端的に言ってしまえば、自らがどう受け取るかで決まります。
よって快や幸福を検出する質感の感性を育めば日々幸福だと感じる出来事が増えるでしょうし、不快や不幸も同様です。
そう捉えれば、日々の快をより実感して幸福に生きることへと繋がるのではないでしょうか。
余談
快不快とはそれに気付くか否かに関する、別側面からの言説。