督促・催促・リマインド。
そういった仕事における一般的なコミュニケーションにおいて、時折やたらと攻撃的な人を見かけます。
個人的に今一つその利得が理解できていないので、私の考え方を述べていきます。
基本的に無意味かマイナス
まず、そもそも私は督促や催促をほとんどしません。
納期が近付いても連絡がなければ念のためのリマインドは行いますが、その際も責める意図はなくやんわりと納期の確認を取るだけです。
その理由は単純に私が督促・催促されることをあまり好まないためです。自分がされて嫌なことは人にしようと思いません。
納期に間に合わない事態、それは大別すれば「納期を忘れている」か「間に合わない事情がある」ことが理由です。
納期を忘れているのであれば納期前のリマインドで目的を充分達成できますし、間に合わない事情がある場合にただ督促や催促があってもそれで仕事が進むわけではありません。ただでさえ間に合わない事情で忙殺されているところに督促の電話やメールが来るのはむしろ阻害や邪魔以外の何物でもないでしょう。
さらに言えば、攻撃的・威圧的な督促や催促は相手によっては機嫌を損ねて仕事の進行をより悪化させる可能性すらあります。
つまるところ非建設的なただの督促や催促はあまり意味が無く、攻撃的・威圧的なそれは場合によってはマイナスです。そう思っているからこそ私は基本的に督促や催促を行いません。
意味のある督促・催促
そもそも督促や催促をかけることの目的、ミッションはなにか。
それは当然ながら仕事を成し遂げることのはずです。適切な品質のものを妥当なコストで期日内に完成することこそが仕事であり、仕事における行動の基準となっている必要があります。督促や催促もそのために行われるはずです。
そうであれば、相手の機嫌を損ねて仕事の品質を劣化させるリスクを取ること、無駄なやり取りを発生させてコストを上げること、余計な仕事を増やして納期に影響させること、そういった役に立たない督促や催促は避けねばなりません。
督促や催促を行う場合は目的に資するような形を取る必要があります。
そのやり方はとても単純で、「建設的な提案」を沿えることです。
そうすれば督促や催促にも意味が生じます。
「何か必要なことはありますか」
「こちらではこういった手助けができます」
「どのように状況を調整すれば納期内に納められますか」
「納期を調整する場合はいつまでであれば都合がいいですか」
こちらができる行動や相手の事情を斟酌した働きかけを含めた建設的な督促・催促だけが仕事の目的に資する意味のある行為です。これに比べればただ督促をかけたり威圧的に催促をするような行動ははっきり無駄だと断定してもいいくらいです。
相手の事情を斟酌することを嫌い、「納期から遅れている相手が悪いのだから攻撃的な態度は許される」と考える人がいるかもしれませんが、そういった自己満足的な善悪論は仕事の上で実にどうでもいい話です。
仕事の目的は善悪を見定めることや道徳的優位に立って自己満足に浸ることではなく仕事を完了することであり、その阻害をするような不適切な督促・催促をする人のほうがビジネス的には悪であると留意する必要があります。
結言
督促や催促は基本的に意味がなく、場合によってはマイナスですらあります。督促や催促をかける場合は「建設的な提案」を沿えて仕事の達成に資するようなやり方を取りましょう。
そして督促や催促は基本的に建設的な行いではありませんので、それが必要ないようなコミュニケーションが理想的です。
納期に間に合わない場合は督促や催促が来る前に自分から報告しましょう。
それが双方の無駄を防ぐ最適なマナーです。
余談
このブログでは散々取り上げてきたテーマですが、今回の話は「相手に落ち度があったとしても、それは相手を攻撃していい免罪符とはならない」話の延長です。
『間違いを犯した人が叩かれる社会』。
それはいずれ『間違いを犯す人が居なくなる社会』へと純化されていく。
なんてことはなく、『誰も彼もが間違いを隠蔽する社会』になるだけです。
人の過ちに対しては批判の断罪が振るわれて然るべきですが、落ち度や間違いに対してはそうすべきでないと考えます。
つまるところ、言いたいのは『間違い』と『過ち』を区分すべきだということです。
『間違い』とはヒューマンエラーです。焦りやうっかりミス、誤認や誤解といった原因によって為すべきことが為せなかった受動的な行動を意味します。
『過ち』とは意図的な逸脱です。手抜くためにやるべきことをやらなかったり、利益や悪意のためにやるべきでないことをやったりと、為すべきことを為さなかった能動的な行動を意味します。
これらは明確に区分して理解されるべきものだと考えます。
もちろん人や社会に損害を与えたことに対する罰は『間違い』と『過ち』の双方に存在します。交通事故を起こしたとして、それが過重労働による疲労であろうとよそ見運転であろうと、罰の軽重はあれど罰則が適用されるのは社会の正義です。
しかし『過ち』とは違って『間違い』は罪ではありません。『過ち』は避けられるのに対して、『間違い』は人が人である以上避けようがないものだからです。これらを一緒くたにして断罪するのは不適切だと考えます。私たちが断罪すべきは『過ち』のみです。