インターネットの一部界隈で職業差別について騒ぎになっていたので、そういった認知や差別に関する私的な見解を整理してみます。
今回の騒ぎの根源はよく見かけるような「ブルーカラーの職業に対する見下し発言」と「男性への統計的差別発言」でしたが、今回は話を単純にするため性差別に関しては取り扱いません。
職業差別の根底
職業差別は古来から現代まで連綿と続いている根深い差別の一つです。昨今では職業差別は悪いことだとした認識が広まりつつありますが、今でも世界中で次のような定型句がある程度にはブルーカラーの仕事を下に見る人がいます。
「ちゃんと勉強しないとマクドナルドで働くことになるぞ」
「勉強しないと、あなたの将来は掃除人よ」
「ちゃんと勉強しないとこういう所で働くことになりますよ」
また、アンチパターンとしてブルーカラーの価値を高く見積もった次のような意見も散見されます。
「学歴がない人が肉体労働に就くのではなく、肉体労働に就けない人に必要なのが学歴」
これも結局はホワイトカラーを下に見ているだけで、ベクトルが逆なだけの職業差別です。
他にも肉体労働や事務労働といった区分ではなく、土木・公務員・警察・芸能 ・政治家など個別の職業に対する職業差別意識を持っている人もまだまだいるのが現状です。正規雇用と非正規雇用のように雇用形態に対しての差別も間違いなく未だ存在しているでしょう。
僧侶や神官を上にして屠殺のように命を頂く仕事を下に見るような宗教的・道徳的理由に基づく差別があるように、職業差別には様々な理由があるため簡単に解消することはできません。
上で挙げたブルーカラー(ホワイトカラー)への差別意識は、努力や能力の差で職業を上下に区分していることから、過度なメリトクラシー(能力主義)の内面化が一因だと言えるでしょう。
「凄さ」と「偉さ」の違い
他者よりも能力や才覚に優れた誰かを人は自然と尊敬してしまうものです。メリトクラシーは実に根源的かつ本能的で、それだけに頑強な考え方だと言えます。
ただ、本質的に見直すべきこととして凄いことは偉いことなのかを問いかける必要があります。
偉いと凄いは類似した言葉ですが、実際は若干ニュアンスが異なります。
偉い/偉くないは善悪の概念を含有しています。偉いことは良いことであり、偉くないことは悪いことです。
対して凄い/凄くないことは善悪を有しません。凄いことはただ凄いのであり、凄くないことはただ凄くないだけです。
この識別は比較的簡単で、反転した時に成立するかどうかで見分けることができます。
足が速いことは凄いですが、偉くはありません。
足が遅いことは悪ではないためです。
頭が良いことは凄いですが、偉くはありません。
頭が鈍いことは悪ではないためです。
容姿が優れることは凄いですが、偉くはありません。
容姿が優れないことは悪ではないためです。
収入が多いことは凄いことですが、偉くはありません。
収入が少ないことは悪ではないためです。
優れた肉体を持っていなければできない高強度の肉体労働に従事できることは凄いことですが、偉くはありません。それが出来ないことは悪ではないためです。
優れた知能を持っていなければできない頭脳労働に従事することは凄いことですが、偉くはありません。それが出来ないことは悪ではないためです。
この点を誤認して職業や能力の凄さを偉さと誤認して上下で区分してしまうのは、過度なメリトクラシーに陥っていると言えます。
偉い人とはどのような人か
能力や才覚の凄さが偉さではないのであれば、何をもって偉さが決まるのか。
これも簡単です。
偉い人とは人格や品格に優れて公益のために働ける人、他者のために行動できる人です。
これは反転しても成立します。人格と品格が劣り、私益のためだけに動き、他者を蔑ろにする人、これは実に分かりやすい社会悪でしょう。
この偉さに比べれば、肉体や頭脳がどれだけ優れているかなんて些末なことです。
過度なメリトクラシーを持つ人は、他にも偉さと凄さを混同する別の過ちを犯します。
それは、能力の優れた凄い人は人格的にも高潔であるに違いないとする誤認です。
実際は「凄さ」と「偉さ」には関連がなく、人格的な偉さは個々人の能力とは無関係です。世の中には才覚に溢れた人でなしも居れば才覚の劣る善人も居ます。そのことを認識できず、世の成功者と言われるような人を人格的にも優れていると思い込むのは明確に誤りであり、過度なメリトクラシーの問題です。
結言
職業差別意識は過度なメリトクラシー(能力主義)が原因の一端です。
実際には能力と人格は連動せず、そして凄いことと偉いことには違いがあります。
私たちが真に尊重すべきは能力の凄さではなく人格の偉さであったほうが健全な社会となるでしょう。
メリトクラシーは非常に本能的です。小学校で足の速い子どもがヒーローとして偉い立場となるように、優れていることは偉いことだと人間は本能的に認識してしまいがちです。
厳しい言い方をすれば職業差別意識とは本能的な子どもの考え方です。
それは子どもの間であれば許されますが、その後は成熟して卒業する必要があります。本能的な認識を再構築して、より社会的な公平性や平等性を求めることこそが理性の仕事であり、大人の考え方ではないかと私は思います。