判官贔屓について思うところ。
科学的な理解
判官贔屓とは「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで同情を寄せてしまう」心理現象です。類語としては「弱気を助け強きを挫く」の前半部分が近いでしょうか。
これは何も日本人に特有の心理現象ではなく、英語では同じ意味の言葉としてUnderdog Effect(アンダードッグ効果)やRoot for the underdog(弱者に声援を送る)がありますし、あるいは小さく弱いものが大きく強いものを倒す物語として旧約聖書のダビデとゴリアテを筆頭に様々な共感が寄せられているように、弱い側へ肩入れしたくなる心理は洋の東西を問わず万国共通のものです。
このような心理が生じる一端は科学的に説明されています。
曰く、人は予期せぬ成功へ強い興奮を覚えるためとのことです。
◆Why We Root for the Underdog - Cognitive Literacy Solutions
強者を応援して勝利することは予想通りであり驚きもなければ報酬感もありませんが、弱者を応援して万が一勝利した場合は強く脳内興奮物質が発生することとなり、それが快楽の報酬系として機能していることから人は弱者を応援しがちであることが示されています。
これは”応援”という間接的関わりにあることも意味を持っています。勝敗がより個人的、あるいは直接的に影響をもたらす場合、人は強者を応援する可能性が高くなると示されています。利害が関わる場合は脳内の報酬系よりも直接の報酬が優先されるということでしょう。
共感に関する考察
このように脳内報酬系の快楽で判官贔屓は説明できる気もしますが、ただ、個人的には少し気になるところがあります。
それは弱者への共感です。
ギャンブルでオッズの高い大穴を当てた時のような単純な損得だけの説明では、判官贔屓やアンダードッグ効果において同情や共感が伴うことを説明できていないような気がします。
それこそルーレットでストレートアップを当てた場合、その予期せぬ成功に興奮したとしてもその数字に同情や共感が伴うことはないでしょう。共感にはもっと別の人間的要素、直接的に言えば類似性が必要です。
つまり判官贔屓やアンダードッグ効果では、そういった心理状態へ陥る人は自らに弱者性を感じているから共感が生じるのではないか、そう考えます。
とはいえ誰もが自身を弱者だと認識して生きているわけでもなく、ここではやはり典型的な物語構造が機能しているものと思われます。
それはとてもシンプルな、弱者としての人々の物語です。
これも洋の東西を問わない話ですが、物語で度々登場する舞台装置としての巨悪、その巨悪を強大に描くためにはその反対側に善性を持った弱者を配置することが効果的です。
それはつまり、民衆です。
大抵の物語構造において普通の人々は無辜の民としての属性を与えられています。
これは現実を見ても同様だと言えます。政府や軍隊、大企業や悪の組織などの悪を語る場合、その対角に位置する普通の人々は必ず善性で、弱者です。
そういった典型的な物語構造はまさに王道として人々に刷り込まれており、ひいてはそれが大多数の人が内面に持つ弱者性として他所の弱者への共感を引き出すトリガーになっているのかもしれません。
結言
無意識的に刷り込まれた弱者としての民衆の一員である意識、それが判官贔屓やアンダードッグ効果に表れているのではないか、そんな想像でした。
なお、もはや王道であり多くの人の心の中に根付いている「民衆の弱者性」について、もしもそれが実際には失われた世界において民衆はどう振る舞うべきなのか、考えてみるのも一興かもしれません。
著名人であっても権力者であっても社会的に攻撃することができるようになった現代において、民衆は本当に善性で、弱者なのか。
これはある意味で問われる必要がある問題定義でしょう。
これが問われなければ「大衆は常に善性であり、誤謬はあり得ない」となってしまいます。そしてそれはどう考えても間違えた考えなのですから。