忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

お節介な人はどこかへ消えたのか?

 

 現代は都市化が進んだことで人間関係が希薄になった時代だと言われています。

 隣の家に住んでいる人をよく知らない。ご近所付き合いは減った。道端で悪さをしていたとしても知らない子どもを叱るなんてとんでもない。

 

 そんな風に言われますが、実はそうとも言えないのではないかと思っている話をします。

 

ネットの”炎上”は延長線上

 人付き合いにおける関わりの切っ掛けは本質的にお節介です。

 お節介というと悪い言葉ではありますが、誰も彼もが自ら欲するところを他者へ要求できるわけでもありません。そういった人に対して出しゃばって世話を焼く人がいるからこそ幅広く人付き合いの関わりが生まれてコミュニティに溶け込むことができるようになります。

 そういった油っぽいベタベタした人間関係が重いと思う人が多かったからこそ社会は都市化が進み水っぽいサラサラした人間関係が主流になってきたわけではありますが、しかしサラサラした人間関係はあまりにも希薄でコミュニティとしての持続性に欠けるところがあります。ある程度の許容できる範囲での粘性、すなわちお節介を切っ掛けとする人の人の関わりは社会にとって有益です。

 

 現代は都市化が進んで人々の人間関係が薄くなったと言われますが、とはいえそこに属する人間そのものが変わったわけではありません。つまりお節介焼きな人が急に消えて居なくなったわけでもなく、その発露の場が変わっただけに過ぎないと私は思っています。

 ではお節介焼きはどこへ行ったのか。

 それは恐らくネットです。

 特にSNSには多数のお節介焼きが存在していると思います。

 

 典型的な例を挙げればバイトテロ、つまり子どものいたずらに対するネットの反応です。

 まあいたずらの域を超えて威力業務妨害や偽計業務妨害に至っている事例も多々ありますが、その程度はさておき、その子どもの投稿へ批判を投げつける人が多数いることが一つの証左かと思っています。

 なにせ人様の子どもの悪さなんてものはどう考えても他人事であり、いちいち出しゃばって他人が口を挟む必要性は無いことです。そういった事柄に対してわざわざ出しゃばって口を出す行為は本質的に道端で悪さをしている知らない子どもを叱る行為と同等だと言えるでしょう。まさしくこれはお節介です。

 これは子どもの悪さに限った話ではありません。失言をした人や誤った行動を取った人に対してリプライを飛ばしに行く人は全て同根だと言えます。

 だって全て他人事なのですから。

 本来は当事者間で処理すればいいだけの話であって、無関係な人間が出しゃばって何かしら述べる必要はありません。せいぜいが家庭や職場など自分のコミュニティ内で話題にすればいい程度の話で、当人へ直接モノ申す類の人はお節介焼きだと言って差し支えないでしょう。

 

 つまり、都市化によってお節介焼きが減って人間関係が水のようにサラサラした希薄なものになっただけではなく、お節介焼きのお節介欲求が発露する場所が現実の世界からネットの世界に変わったのではないか、私はそう考えます。

 

結言

 お節介という特性はコミュニティの維持管理に役立つ、ただ悪いだけの特性ではないと思っていますが、あまりにも多くのお節介焼きが一挙に殺到するのはさすがに宜しくありません。道端で悪さをした子どもをご近所中の大人が各家から飛び出してきて囲んで叱るのはやり過ぎであるようにです。

 つまりお節介は必要な資質ではありますが、ほどほどの加減が必要です。