忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

より強固な幻想を

 

 疲れている時にブログを書こうとすると、なにやら説教臭い文章ばかりが頭に浮かんでくる、実に宜しくない。

 世間にモノ申したくなるのはどう考えてもただの現実逃避に過ぎず、実に宜しくない。

 かといって現実と向き合うにしても限度はある。

 人は「現実を直視せよ」と言うが、現実の解釈は視覚が受け取った刺激を中枢神経系がどう処理するかによって可変的であり、異常時に情報処理された現実は正常時の現実とは異なる。何らかの精神疾患等によって幻視が見えたとして、それは当人にとっては間違いなく直視した現実に他ならない。

 やはり人間には幻想が必要だ。

 

 

 

 よく分からない書き出しですが、とりあえず上の文章を書いている時に「しげき」を変換したら「刺激」ではなく「茂樹」と出てきたので笑ってしまった、それくらいには疲れています。疲れていると笑いの沸点が下がりますね。実際は笑うほど面白い誤変換ではありません。

 疲れている時は、変な話をしましょう。

 

我々は幻想に生きている

 実際問題として、私たちが直視している現実は人それぞれ異なるものです。同じものを観測してもその観測結果は観測者の影響をそれぞれ受ける以上、そこに客観性はありません。

 たとえ客観的実在が存在しているのだとしても、私たちは主観的実在しか観測し得ない以上、それぞれの人間は同じ世界を見て違う世界を生きていることになります。

 それは言わば個々の人が個別に持つ幻想です。

 

 たとえ他者にとって著しく不快な環境だとしてもその環境に住まう当人がそうだと感受していなければそれは不快ではないように、より強固な幻想を纏う人間は頑強です。であれば私たちは実在の不明な”現実”と呼ばれる客観的実在の変革を目指すのではなく、自らが幻想として感受している主観を変革することが合理的かつ具体的で、さらには効果的です。

 実に簡単な話でしょう。苦しいと思うから苦なのであり、苦を感じなければ苦ではないのですから。この辺りは東洋哲学が遥か昔に辿り着いていますし、西洋哲学でも同様のことが言われている程度には実に簡単な理屈です。

 

 これは無心になって苦を無視することではありません。それはただの我慢であり、いずれボロが出ます。

 そうではなく、より強固な幻想を纏うことで苦を苦で無くすることが適しています。

 心を殺すのではなく自然体であること、感覚器で感じた刺激を中枢神経系で処理しているのだからそれをそうと感じないように処理すればいいわけで、そういった幻想を持つだけで苦しみから解放されることでしょう。

 

言之易而行之難

 要するに悟ればいいだけの話です

 うーん、軽口。

 「それが出来れば苦労はない」の典型例かもしれません。

 まあでもお釈迦様が悟りを開いたのも35歳ですので、案外難しくないような気はします。少なくとも老齢に伴う経験や蓄積を伴わずとも知性と理性に基づいて辿り着ける範囲というわけで、ちょっとチャレンジしてみれば案外誰もが悟れちゃうかもしれません。

 

結言

 疲れている時の現実逃避の発想が「悟ること」なあたり、やはり私の思考回路はどこかズレています。どうやら悪い幻想を持っているようです。