忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

中国とアメリカに感じた近似性

 

 大国は似通るものなのか。

 

モザイク状の発展

 一週間程度ではありましたが、12月は中国へ出張に行きました。

 行った先は広州や重慶のような都会です。上海や北京ほどではないそうですが、さすがに日本とは規模感が異なりまさに大都市といった感じでした。なにせ重慶だけでも東京より人口が多いわけで、スケールの違いに圧倒されるばかりです。

 

 ただ、中国の都市は日本の都市とは少し違った雰囲気でもありました。

 都市と一口に言ってもその発展度合いには疎密があり、当然ながら都心と少し離れたところでは差が生じます。日本でも電車や車で移動していれば少しずつ景色が変わっていく様を見ることができるでしょう。

 韓国のソウルや釜山へ行った時は東京に近いものを感じたことを覚えています。どちらも都会で、都心から離れていくと徐々に景色の都会度が下がっていく感覚です。

 しかし広州や重慶ではそういった印象が薄く、発展度合いの疎密がより近接していると言いますか、非常にモザイク状であったことが印象的でした。

 電車や車で移動するほどの距離を動かずとも、ホテルの窓から外を眺めるだけでも金のあるエリアと金の無いエリアがはっきりと分かれていることが分かります。ホテルを出て少し歩くだけで富裕層のエリアと貧民層のエリアのどちらにもアクセスできる、それほどに発展がモザイク状です。

 これはアメリカへ行った際も同様の感想を持ったことを覚えています。非常に奇麗で整備された公園で白人の女性が日の光を浴びながら犬の散歩をしている、そこから一本逸れた薄汚れた暗いストリートでは黒人の若者が大麻を吸っていたあの光景は、同心円状に発展しがちな日本に住んでいるとあまり見ることができない光景でした。

 もちろん日本にもそういった地域が無いわけではありませんが、少なくともあそこまでの貧富の格差が隣接していることは一般的ではないと思われます。

 

類似性から見る大国の違い

 景色に限らず、中国とアメリカは似た国だと感じました。

 何よりも似ていると感じたのは「無駄に対する意識」です。

 アメリカも中国も、とにかく資源の浪費がすさまじいです。とにかく入手し、とにかく消費し、とにかく廃棄しています。アメリカ人も中国人も平気で食べ物を捨てるのですが、それが日本人の私からすると極めて奇特に思えます。

 余剰があること、それを廃棄することが贅沢であり、そして贅沢は良いことであるとした発想が彼らにはあります。言い換えれば、無駄こそが贅沢です。なんとも、資源の豊富な大国ならではの発想です。

 

 最近はあまり言われなくなりましたが、一時期日本でもコンビニの廃棄弁当などで食料が無駄になっていることがメディアを筆頭に批判の対象となっていましたし、東京オリンピックでも弁当の廃棄が問題視されました。

 彼らの浪費を見ていると、日本人の節約ぶりが実は世界的に少数派なのだと理解できます。過去に当ブログでも取り上げたことがありますが、日本は食品廃棄やごみの発生量が世界的に見てトップクラスに少ない国です。

 データだけでは理解が難しいかもしれませんが、実際に彼らの生活ぶりを見ていると納得がいくかもしれません。

 私も今では「あれだけ食品を捨てて、あれだけゴミを出す人々は、それはまあ数値にも現れるわな」といった感想です。

 

結言

 海外出張で様々な国へ赴く度、人の精神性やお国柄は国土や環境が作り上げるのだなと実感できて面白いです。これは肌で感じる地政学と言っていいかもしれません、少し過言ですが。