忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

社会性を持つこととは、人間に擬態することだと思っている

 

 重苦しいテーマを記事にすると重苦しくなります。

 まあ、当たり前です。

 時々であればいいですが常に重いと胃もたれしてしまうので、切り替えて緩い話をしましょう。

 

 この記事タイトルはヘヴィな雰囲気を醸し出しているかもしれませんが、中身はそうでもありません。

 

内部指向型

 職場で時々「誰々は挨拶しない」「挨拶を返してくれない」と文句を言っている人を見かけます。私は他人が挨拶するかどうかをまったく気にしないので、少し新鮮な気持ちになります。なるほど、そういう感想もあるのかと。

 以前にコストパフォーマンスの観点から挨拶を推奨する理屈を組み立ててみたこともありますが、それは「挨拶はコスパが悪い」といった意見への反対言論を意図したもので、そもそも私は挨拶をコスト云々の対象とはしていません。

 私自身は活発に挨拶することを好みますが、それは私がそうしたいからしているだけです。相手が挨拶を返してこようが無視しようがまったく気になりませんし、そもそも相手の挨拶を聞いていない節すらあります。

 挨拶に限らず、私の行動は非常に自己完結的です。

 例えば遠出をした時にお土産を買うのは私がお土産を買いたいからであり、その行動に対してお礼を言われることはあまり好きではないです。私が配りたいから配っているだけで、その時点で自分の中ではすでに満足が完了しています。それ以上は蛇足です。

 リースマンの分類【伝統志向型】【内部指向型】【他人指向型】で分けるならば私は圧倒的なまでに【内部指向型】の人間です。伝統や他者は私の意思決定や判断の主要因とはならず、これを選ぶのも、あれをするのも、それを好むのも、私がそうしたいからです。慣習的にそうすべきであることや皆がどうしているかはさほど興味がありません。やりたいことをやりたいようにやれればよく、何かをして何かを外部から得ることではなく何かをすること自体が独立的な報酬系として働いています。

 それこそ先日はテレビドラマを見ましたが、見たのは10年以上前のドラマです。私は私が見たいと思ったものを見たいと思った時に見ます。流行や最新であることは私の興味の範疇ではありません。

 

社会性の不足

 この手の人間は承認欲求的なものを自産自消できるためメンタルを安定させやすいのですが、若干を超えて社会性が不足することがあります。他者に求めず返報性が弱いことは、裏返すと相手に対しても返報性が弱いためです。

 典型的なのが先に例であげたお土産で、『私は私がお土産を配ること自体に満足を覚えるのでお礼の言葉はまったくいらない』が『相手は相手が配ったお土産に対してお礼をされることで満足するかもしれない』と認識して『ちゃんとお礼を言わないと』と行動する、お土産でのお礼一つとってもそんなよく分からない思考工程を踏まないとなりません。

 世の中は持ちつ持たれつの返報性で成り立っていますので、その意識が弱いことは社会性が薄いこととシンプルに同義です。

 もちろん極限まで【内部指向型】が高まった人であれば「他者からどう見られようとかまわない」まで行き着いて返報性云々すら気にしなくなるのでしょうが、さすがに私はそこまで社会的動物を捨てることはしたくありません。まだ人間に擬態していたいです。

 

結言

 この世に完全な人間をエミュレートしている人はおらず、誰しも何らかの形で人間を装っていると思います。

 まあ、これはそんな擬態の一例で、他人からお礼を言われて嬉しくなる人もいればお礼はいらないと思っている人間もいる、そんな話です。