忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

善人ごっこの落とし穴

 

 人を抉るような鋭利な言説は宜しくないとはいえ、時々思っていること。

 たまにはダークな感じの記事を書いてみましょう。

 

善人ごっこ

 「悪人を叩く自分は悪と対峙する側、すなわち善の側であり、悪人を叩く自分は善なのだ」

といった妄想に浸っている善人ごっこをSNS辺りでよく見かけます。

 現実には悪の反対側が善とは限らず、悪と対立する悪も当然の如く存在します。常識的に考えてヤクザとヤクザが争っていたらどちらも悪でしょう。

 よって悪人を叩くことは自らの善性を証明することにはなりません

 また、人を叩く行為はそれが物理的であれ言論であれ攻撃であり、他者を攻撃することは悪です。

 つまり表面的な虚飾を剥ぎ取って本質的に考えれば悪人を叩く人は善どころか悪です。程度の差こそあれど、たとえどのような大義名分があろうと相手が悪であろうと他者を攻撃した時点で悪に堕します。他者への暴力は状況を鑑みて情状酌量の余地はありますが、逆に言えば酌量が無い限りは悪です。

 そのため、まるで自分を善の如く錯覚して悪人を叩いている人は「ただの善人ごっこをしている悪人」以外の何物でもないのですが、当人たちからすれば自分がどう見えているのか疑問に思っています。

 自分が善人に見えているのであれば誤認ですし、自分を悪人だと思っているのであればただの恥知らずですし、暴力の娯楽性を楽しんでいるのであればシンプルに人間の屑です。

 

 まあ、頭が良い人は暇を持て余して争いのような単純で原始的な娯楽に飢えることはありません。

 よってSNSなどで気軽に他者を攻撃しているのは【暇を持て余していて】【娯楽に飢える程度には頭が良くない】人となります。そういった人の言説や攻撃性はそこまで注視する意味のあるものではないでしょう。

 

カルト・信仰・陰謀論との相性

 まあ善人ごっこを楽しむのは人それぞれ自由ではあります。必然的に他者へ迷惑を掛ける類の娯楽ですので推奨はしませんが。

 ただ、それが善人ごっこであると自覚して露悪的な趣味を楽しんでいるのならばまだしも、無自覚に弄んでいるのであれば思考プロセスを見直したほうがいいと思います。誤解に無自覚だと悪の外部化と善の独占が高じて物事を党派性で捉えるようになるためです。

 「悪人を叩く側は善」とした理屈は善悪の極端な二分化を招き、「悪の側は全て問題であり否定すべき」「悪を叩くこちら側は善だから全てが許容される」と容易に転化して、最終的には「こちらが善である以上、こちらを批判するものは全て悪」とした意味不明な思考にまで堕します。物事を道理や理屈ではなく善悪で判別する思考は党派性の極みであり、明確に誤認です。ここまで到達すると異なる意見が全て敵に見えて、話し合いを拒絶するようになります。

 

 また「悪の反対は善」の物語はカルト・信仰・陰謀論と近似します。 

  あまり具体的な例を出したくはないのですが、メジャーなところで例示すれば化学調味料や化学物質に対する過度なイデオロギーの傾倒です。

 化学調味料や化学物質には体に悪いものもたしかにあります。

 とはいえそれらを悪として全て排除するような発想は明らかに誤りです。化学調味料や化学物質は体に良いもの、あるいはその中間として体に悪いわけではないものもありますし、たとえ全ての化学物質が悪であったとしても自然由来のものが善であることの証明にはなりません。現実には自然由来の危険な物質だって山ほどあります。

 しかし「悪の反対は善」とした規範が心中にあると「化学物質が悪であれば自然の物質は善」とした誤解に陥ることとなります。そしてこれは明確に誤謬です。

 このような誤謬はカルトや信仰、そして陰謀論に陥った人が囚われている発想と同じであり、あまり健全な考え方ではないと思います。

 

結言

 人には内心の自由がありますので心の中で何を考えていようが自由ではありますが、それを言動に反映させてごっこ遊びで他者に迷惑を掛けるのはあまり宜しくありません。たとえ窮屈でも皆がそれなりのモラルを保った社会のほうが住み心地は良いでしょう。