今日はこんなことわざを見かけました。
Hell is full of good meanings, but heaven is full of good works.
地獄は善意で満ちているが、天国は善行で満ちている。
当ブログでは少しクドいほど『善意』と『善行』の違いを語ってきましたが、まさにそのことを端的に述べたことわざです。
私のような現代の凡人が考えるようなことはすでに過去の賢者が発見していて時間に研磨されて伝えられているのであり、そういった古典の英知から学べることは無数にあるのだと思い知らされます。
ちなみに、『善意』と『善行』を使い分けている記事をブログ内検索してみると思ったよりも言及していました。
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この量はさすがにクドい。
戒め
このことわざは言葉ではなく行動で示すことの重要性を示しているとも言えますし、意図や思いが必ずしも通じるわけではなくむしろ時には悪しき結果をもたらすことへの警句とも取れます。
言葉の定義から意味を少し考えてみましょう。
Good meanings(善意)とは文字通り「善の意図」「善の目的」です。行為者の主観的な心が指している向きが善であることを意味します。
善を指向すること自体は当然悪いわけではありません。少なくともそれはポジティブなものだと言えるでしょう。
ただ、その善は他者にとっての善とは限りません。人はつい「良かれと思って」と善意を押し付けてしまいがちなものですが、周囲の善と擦り合わせを行っていない個人の善は非常に辛辣な言い回しではありますが独善、すなわち独り善がりです。少なくとも己に対しては善いものですが、それが他者にとって善いかどうかは状況次第となります。
Good works(善行)は一つの熟語で、「他の人々、特に問題を抱えた人々を助けるために行われること」を意味します。
Good meanings(善意)とGood works(善行)で明確に違うのは視点です。善行とは「困っている他者が喜ぶこと」が主題であり、善意とは「己を喜ばせること」が主眼です。もっと言えば、「相手を想っているか」と「己を想っているか」の違いだと言えます。
もちろん己の喜びのための善意がたまたま相手のニーズに合致してwin-winになることもありますが、運が悪ければ善意の行動が相手にとっての悪行へと転ずることすらあります。
対して善行は相手の助けになることであり、たとえ行為者に苦痛を生むものであっても相手にとっての善を為すことが善行です。
結言
厭味な言い回しとなりますが、自分のことしか考えていない人ばかりが集まる所は争いが絶えず、相手のことを思いやれる人が集まる所は住み心地が良いでしょう。まさしく「地獄は善意で満ちているが、天国は善行で満ちている」のだと思います。