以前にもちょろっとブログで述べたことがありますが、インターネットアカウントのbio(人物紹介・プロフィール)に自身の精神疾患を記載する人がいることについて気になっています。
それが気になる理由は普通に考えれば利用可能性バイアス、すなわち『そうでない人は書かず、書かない人のbioは目にとまらないから書いている人のbioだけ記憶に残っている』だけでしょうが、そもそも何故記載するのかを疑問に思っています。
例えばコミュニケーションを取る際の注意喚起の意味であったり、投薬や闘病に対する奮起の目的かもしれません。或いは一種の個性、他者と差別化された自らのアイデンティティとして捉えている場合もあるでしょう。
もちろん人それぞれ記載することの意図や目的は異なるのでしょうし、どのような理由であれ当人の自由で構わないと思っていますが、ただ、アイデンティティと捉えている場合は少し注意が必要ではないかとは思っています。
個性・アイデンティティの価値
人は確固たる己の存在意義を模索せずにはいられない生き物であり、個性・アイデンティティを確立することは全ての人にとっての課題です。自己と他者を分け隔てるものこそが自分を証明する手立てであり、個性はまず何よりも自分にとって必要とされます。
また、現代は古代中世の全体主義・封建主義社会と比べれば個性を持つことが持て囃される世の中です。それはただ技術発展に伴う自由の拡大と全体主義的風潮の衰退のみが理由ではなく、集団規模の拡大と伝統的個性の消失が大きな原因だと言えます。
かつての社会であれば「村唯一の仕事」などで容易に確立できた個性も、今や比較先は世界中の全てであり、その中で抜きんでた何かしらを入手することは至難の業です。現代は昔に比べて個性獲得の難易度が高まったからこそ個性が持て囃されるようになったとすら言ってもいいでしょう。
「障害は個性」は奇麗事ではないが、優しくもない
誰しもが自らの個性確立へ躍起となる現代社会ではありますが、そもそも個性とは必ずしもポジティブなものとは限りません。個性とはただ単に「他の人とちがった、その人特有の性質・性格」に過ぎず、それが良いものであっても悪いものであっても個性は個性です。
それこそ短気で人や物にすぐ当たり散らす性格や、犯罪へと繋がる窃視症や窃触障害なども、定義からすれば個性だと言えます。迷惑系YouTuberだって個性です。
時折語られる「障害は個性」だって誤った言葉ではありません。この言葉は個性を適切に示しており、奇麗事ではないものの優しい言葉でもない、それだけのことです。
精神疾患のアイデンティティ化
以上より、誰もが個性の確立を目指しており、そして個性とは必ずしもポジティブでない以上、精神疾患も一つの個性足り得ます。
その点からすればbio(人物紹介・プロフィール)に精神疾患を記載することも妥当ではあります。bioは他者と差別化できる個性を記述する項目であり、精神疾患はまさに正しく個性なのですから。
とはいえ、このような『精神疾患のアイデンティティ化』を持て囃して良いかはなんとも言い難いものです。それが当人のQoLに支障を来たしていないのであればまだしも、病いが自らを苛んでいたり平癒を求めているのであればあまり記述しない方が良いと思っています。
誰しもが個性を確立する欲求を持っていることは、裏を返せばアイデンティティを手放すことの難しさをも意味します。
その点からして、極論ではありますが『精神疾患のアイデンティティ化』は疾患の治療に対するディスインセンティブにすらなり得ます。たとえそれが自らに負をもたらす個性であっても個性は個性であり、手放し難くなりかねません。
よって疾患が人生の質を下げかねないのならば、それを個性として取り扱うことは止めておいたほうが無難ではないでしょうか。
結言
敷衍すれば、個性やアイデンティティを修飾語のように取り扱わないほうがいいと私は考えています。
「優しくて気の利く自分」
「双極性障害と向き合う自分」
そういった自分を修飾する事柄にアイデンティティを頼ると、それを失った時に自己同一性を保持できません。より強固なアイデンティティとは「○○○な自分」ではなく「○○○な自分」に基準を置くこと、俗に言う自己肯定感を持つことだと考えます。