忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

好悪は本質的には差別

 

 明け透けに語っていいことではないが、一応は考察して自覚的になっておく必要があると思う事項について。

 

社会は好悪で動いている

 世の中の論議を眺めていると時々思うこととして、世の中は好悪の情が存外に支配的です。人々は何かしらを判断する時に自らの好悪を基準に選別しています。

 もちろん私だって生物ですので多少なりとも好き嫌いはあります。食べ物や人に対してはあまり嫌いな属性はありませんが、納期、無駄な会議、袖あたりは嫌いです。

 ただ、物事を好き嫌いで考えることは忌避すべきだとした祖父の教えを守っているため、なるべくは好悪の色眼鏡を外した状態で物事を中庸に見たいと望んでいます。

 

 ただ、結局のところ好悪の情から逃れることは誰しもできません。

 好悪の情は人それぞれ異なるため、好悪を基準に物事を決めると必然的に衝突が生じます。これはこちらの人が好むがあちらの人は好まない、そんな事例は枚挙に暇がありません。だからこそ軋轢や闘争が生じます。

 私は好悪の色眼鏡によって生じる争いを避けるべきだとした好みがありますので、好悪で物事を決めることをあまり良いとは思っていません。

 ここがどうにもならないややこしい話で、この希望する方向性自体が好みに支配されています

 合理主義者が合理を求めるのは合理を好んでいるからであり、資本主義者が利得を望むのは利得を好んでいるためです。そのような人それぞれ異なる好悪の情が無数に連なったものが社会であり、結局どう足掻いても何かしらの方向性や意思決定には必ず人々の好悪が付き纏います。

 

好悪は本質的には差別

 これを厳しい言葉で言い換えると、世の中は差別で溢れていると言えます。

 差別と区別の差異に関しては当ブログでも時々取り上げてきましたが、国連では差別を『人種、性別、宗教、国籍、民族、性的指向、障害、年齢、言語、社会的身分などに基づく不当な扱いや恣意的な区別』と定義されています。

 好悪の情によって物事に差異を付けることは明確に恣意的な区別、すなわち差別に該当するでしょう。例えば家族や恋人を赤の他人よりも重視することは本質的には差別です。それが社会的合意の範疇とされているため社会的には差別とは扱われませんが、自らの好悪に基づいて対象を優遇する行為それ自体は極めて恣意的であり差別に他なりません。

 好悪に基づく恣意的な区別は差別であり、世の中は好悪で動いている以上、『世の中は差別で溢れている』とした表現は若干の誇張を含むものの実際的です。

 

それを是とするか、非とするか

 ではその是非をどう判断するかもまた難しいものです。

 好悪を肯定して世の中の差別を社会的に許容することも良いですし、好悪を否定してより画一的で機械的な判断基準に社会の意思決定を委ねるのもまた良しです。前者は自由主義の一環であり、後者は全体主義となります。

 どちらがより良いかの理論的な論争が起こることもありますが、結局はそれも好悪に過ぎません。より自由であることを好むか、より合理的であることを好むかの差異です。私としては全体の幸福が最大化される落としどころを模索していけば良いと考えていますが、それも私個人の好みに基づいています。

 なんとも、差別から逃れることは難しいと言えます。差別をすべきでないとした理想ですら、それもまた好悪に基づくものなのですから。

 

結言

 自由主義は個々人の好悪に基づいた差別を許容する思想であり、全体主義は画一的な好悪に基づいた差別を許容する思想です。

 いずれにせよ、自らが何かしらの好悪に基づいた差別をしていることに自覚的となり、時にそれを見直したほうが良いのではないかと私は思っています。

 そしてそれもまた、私の好悪に基づく願望です。