忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

誕生日は年に一回訪れる

 

 3月16日。

 今日は私の誕生日です。わーい。

 

 この書き出しも4回目です。芸が無いのもご愛嬌。

 各種記念日どころか自分の誕生日ですら忘れる人並み外れた記憶力を持つ私ではありますが、ブログのおかげでここ数年はちゃんと誕生日を思い出せています。「そう言えばそろそろ誕生日的な記事を書く時期が近付いてきたような」と気付いて自分の誕生日を調べる癖が付きましたので。ブログって凄い。

 ちなみに自分の誕生日はスマートフォンのメモ帳に書きました。これでいつ事故にあって記憶喪失になっても大丈夫です。

 

羅列的

 誕生日は子どもの頃の思い出話をする日に決めていますが、今回は何を話しましょう。

 人様に語れる範囲の真っ当な思い出話はなんだかんだこのブログでもポツポツと綴ってきましたが、家族や友人の情報をポンポン出すのもプライバシーの観点から宜しくありませんので話せる話題は限られますし、そもそも記憶力が怪しいのであまり昔のことは思い出せません。今パッと思い付くのは黒歴史的なものばかりです。

 幸い犯罪行為に手を染めるほどお馬鹿ではなかったため人様に話せないダークな秘密があるわけではないものの、私はクラスに1人は居る修学旅行で木刀を買う馬鹿な男子の1人だったので記憶にあるのもお馬鹿なエピソードばかり、さすがにそれらを赤裸々に開示するのは気が引けます。

 

 そんなわけで今回は子どもの頃の思い出からは少し離れて、社会人になったばかりの頃の日々を振り返ってみましょう。

 

住めば都

 学費の安さで選んだ東北の大学だが、ここは働き先が少ないし、もう雪に埋もれて過ごすのはこりごりだ。

 そう思った私は卒業研究の合間を縫って関東へと帰り就職活動を行った。

 就職活動は地方学生に厳しい。金は掛かるし卒論も放置できない以上、短期決戦だ。

 最初に内定をくれた企業へ入社すると決め打ちして毎日のように面接を受けたところ、幸い内定をいただけたのでさっさと就職活動を終わりとした。

 

 無事に卒業が決まり引越しの季節となった頃、住居は男性社員寮への入寮を希望した。職場近くの賃貸を探しに行けるほど時間もお金も余裕はない上、そもそも配属先が未定だったことが理由だ。

 幸い同期からは10人ほどが寮生活を選んだため、寮生活への不安は少なかった。

 男性寮は工場の敷地内にポツンとある自社所有の不動産だ。ひび割れたコンクリ打ちっぱなしの5階建てボロ建屋で、風呂トイレキッチンは共同、部屋の広さは驚きの4畳半だ。なお半畳は押し入れなので実質4畳が生活空間となる。エレベータなんて立派なものはない。駅近物件どころか人里離れた外れに位置しており、車が無ければ買い物すら苦行となる。コンビニですら歩いていくには遠すぎた。

 これら諸々の悪条件も、家賃5000円の前には霞んだ。安ければ全て許せる。安さは正義だ。特に新社会人の貧乏若人には。

 他にも好条件は多数あった。事業所の食堂では食費補助付きで三食安く食べられるため、平日は一円も消費せずに済む。職場までは徒歩3分なのでギリギリまで寝ていられる。酷い時はパジャマの上に作業着を着て出社したことすらあった。通勤どころか会社の敷地内に住んでいたのだから、会社に住んでいたと言ってもまったく過言ではない。と言うよりも本当に住んでいた。

 

 何より同期で集まるのは楽しかった。

 入社初期の研修期間は寮へ帰ってくる度に皆で集まって復習をし、各所へ配属された後も何か頼みたいことや聞きたいことがあれば詳しい奴の部屋に行って話せばよかった。問題が難しくとも適当に何人か集めて議論すればなんとかなった。同期ネットワーク様様だ。技術系の研修を受けた後、理系採用組で一人の部屋に集まってああでもないこうでもないと学生時代の教科書を開いて勉強した時間のことは今でも思い出せる。それぞれ専門が違ったおかげで実に学びが多かった。

 休日は「飯食いに行くけど行く奴いるかー?」「出前頼むけど買う奴いるかー?」「あそこに遊びに行くけど誰か一緒に行くかー?」と誰かしらがノックして回り、ぞろぞろと出てきた面子で出掛ける、そんな気楽な関係だった。大人というよりは大学時代の延長のような日々であり、仕事の真面目な関係というよりは友人のようなラフな関係だったが、新社会人の精神的にしんどい時期を皆で緩和しながら乗り切れたのはこういった日常のおかげもあったのだろう。

 

 あの頃同じ寮に住んでいた同期とは今でも気楽に仕事を投げ合い、遊びにもいける。何人かは退職して別のところで働いているが、同期会をすればそいつらもフラリとやってくる。

 幸い同期仲は良い。こういった縁は大切にしていきたいものだ。