忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

建設的な対話に必要な姿勢

 

 相手を変えようとするのではなく自分を変えようとすること。

 まるで宗教やスピリチュアルで聞きそうなフレーズですが、割とリアルな方針だと思っています。

 

変えられるものと変えられないものの峻別

 過去の偉人や現代の賢者など様々な人が述べているように、大抵の場合、他者を変えることはできません

 よって対話において他者の思考を変革しようと狙うのは愚策です。もちろん対話によって双方が変化して高みへと至ることが理想形ではありますが、他者の変化を期待できない以上、それを望むのは高望みというものです。

 それよりは変えられる自分に焦点を当てましょう。

 すなわち、人と対話をする時は端から自分の考えを変える前提で話したほうが効果的です。自論に固執するのではなく、他人を変えようと挑むのでもなく、最初から自分の意見を分解して他人の意見を取り入れて再構築することを前提とする、そのような姿勢が対話の建設性を高めて有効活用へと繋がります。

 

 要するにヘーゲルの弁証法です。

 ある命題(テーゼ)に対してそれと矛盾する反対の命題(アンチテーゼ)が存在する場合、それらを統合した命題(ジンテーゼ)を導き出すことで高める、対話ではそういった建設的な思考の向上を可能とする手段です。

 あえて異なる見解を持った相手と対話をし、その際には自らが固執しかねないテーゼを手放すこと、そういった姿勢を持って挑む対話こそが新たな価値を産み出します。自論に固執していては優れたジンテーゼへ辿り着くことができませんし、アンチテーゼが無くても同様です。

 

 これを言い換えれば相手を変えようとするのではなく自分を変えようとすることであり、「自分を変える」とは宗教的・スピリチュアル的なふんわりとしたイメージではなく、もっと哲学的で論理に基づくリアルな方法論の話です。

 だから自分と違う意見にこそ近付いていき、自分の考えを壊して相手の考えを取り入れる、そういったオープンな姿勢こそが建設的な対話に必要だと私は考えます。

 

 議論は討論とは違い、勝ち負けを競うのではなくそれぞれの意見を持ち寄ってより良い答えを探すものです。皆で食材を持ち寄りなんの料理を作ろうかと話し合うのが議論で、『究極の料理VS至高の料理』のように競い合うのが討論だと言えます

 

インターネット上で議論はできるか? - 忘れん坊の外部記憶域

 

 自論は対話の前では”食材”です。

 当然、対話の中で調理されることが前提となります。

 

結言

 唐突ですが、物語には主人公の精神的な成長が必要だとされています。

 必要なのは肉体的な成長ではなく精神的な成長です。優れた脚本とは観客に影響を与えて観客を変えるものであり、ただ主人公が体を鍛えて敵を打ち倒すだけの物語を見ても観客は自身の行動を変化させるような影響を受けません。観客はそういった肉体的な変化に対してではなく、そうしようと決めた主人公の心の変化や成長に共感して影響を受けます。

 私は対話も一つの物語として捉えることができると考えます。それはプロットのない即興劇ですが、それによって自らを変化させて成長できるのであれば素晴らしいことですし、そういった変化を受け入れて成長を積み重ねられる人こそが優れていると思うためです。