「力を持つと使いたくなる」は誤解だと思っている、そんな話。
暴力のカード
狭い範囲であれば「武器を持つと使いたくなる」、より拡張して言えば「暴力を持つと使いたくなる」は直感的には正しい言説かと思われます。人は集団になったり強い力を持つと気持ちが大きくなりますし、それによって大胆な行動を選択することもあるでしょう。その点で言えば「暴力を持つと使いたくなる」は納得度合の高い言説かと思います。
ただ、実際にはそうとも限りません。
非常に極端な話、男性の多くは肉体の面で言えば女性よりも強い暴力を持っており相対的に暴力を保有していると言えますが、それらの男性が皆暴力を振るうわけではないためです。「暴力を持つと使いたくなる」が真であれば多くの男性が暴力を振るうことになりますが、実際に暴力を選択する人は一握りであり、大抵は社会的に妥当な方法で問題解決を図ることを選択します。
要するに、「暴力を持つと使いたくなる」は真ではないと考えます。
人が暴力を手にした時、選択できる手札に『暴力のカード』が追加されるイメージではなく、元々『暴力のカード』を持っている人が暴力を手にすることでそのカードが有効になる、そのようなイメージです。そもそも最初から『暴力のカード』が手元に無い人は、大抵の男性がそうであるように暴力を持っていたとしても暴力による解決を選択しません。
そもそも、男女ともに子どもを虐待したり弱者をいじめたりする人はいます。相対的な暴力は誰もが保有しており、それでも暴力を選択する人と選択しない人に差異が生じるのは暴力の有無ではなく『暴力のカード』を手札に持っているかどうかの差異であると考えられます。
いくつかの解決法
『暴力のカード』を有効にしないために暴力を保有しないこと、それも確かに一つの解決策とはなります。たとえ『暴力のカード』を持っている人であってもそれが有効でなければ使わないで済むでしょう。
ただ、暴力とは相対的なものです。より強い成人に対してはそのカードが無効になったとしても弱者に対してはそのカードが相対的に有効となるため、暴力を選択してしまうリスクは依然として残ります。
本質的な解決策としては『暴力のカード』自体を持たないことです。そうすればたとえ暴力を手にしたとしても暴力を選ぶことは無くなります。
しかしこればかりは一朝一夕で捨てられるカードではありませんので教育訓練によって廃棄する必要がありますし、日本ではそう起こらないにせよ外部からのリスクに対して完全に暴力の選択肢を失った人が健全で安全な日常生活を送れるかどうかは保証されません。
より現実的に考えるのであれば、相対的な暴力を保有し、そして『暴力のカード』を保有した上で、理性的にそのカードの選択を戒めることが妥当でしょう。
世に清濁があることを知り、それでも清ではなく濁を選ぶことを恥と言います。濁を知らずに清を生きる人は無知であり、清濁を知った上で濁を選ぶ人は恥知らずです。
暴力も同様、暴力を持つこと自体は恥ではなく、むしろ相対的な暴力は誰しも保有しています。その上で暴力を選択することが恥です。『暴力のカード』を持ちつつも選択しないことこそが尊厳であると私は考えます。
結言
「力を持つと使いたくなる」のではなく、「暴力によって問題解決することを望む人が暴力を持つと振るうようになる」のであって、そもそも暴力によって問題解決する思考それ自体を戒めるべきかと考えます。暴力とは相対的なものであり、大抵の人は弱者に対して相対的な暴力を持った強者なのですから。