さらっと書いてみる。
仏教者
仏教関連のワードに「仏教徒」と「仏教者」があります。
厳密な定義があるわけではありませんがまあ大雑把に、宗教的信仰として仏教を学び実践する人を「仏教徒」、哲学的指針として仏教を学び実践する人を「仏教者」と呼称している事例が多そうです。
私は仏教を好む質ではありますが、自身を仏教徒だとは思っていません。強いて言えば仏教者、率直に言えばちょっと仏教を齧った程度の凡人です。
そもそも仏教を信仰しているかと問われればはっきりとノーです。
仏教的には気付き(念)が重要であって、種々の事柄に対して疑念を持ち続けた上で正しく見て正しく考えることが正道ですので、仏教徒の方々を否定するつもりはありませんが信じる行為を軸とする宗教的方法と仏教の方法論は真逆だと思っています。むしろ疑ってなんぼだと思っています。
とはいえ一口に仏教と言っても宗派は無数にあり、その中には信仰を軸としたものも多数あります。日本の仏教は基本的に大乗仏教ですので信仰系です。その信仰は私にはnot for meですが必要な人には必要なものですので、その是非を問うつもりは一切ありません。”これだけ有ればいい”と考えること自体が執着であり、そういった執着を断ち切ることこそが本質ですので、あれもこれも有っていいでしょう。
そんな発想ですので、私は仏教徒とは呼べないかと思っています。
悟りのアナログ性
仏教では苦しみの原因を我執から生じる煩悩にあるとしています。
そのため悟りを表現する際は「煩悩を断ち切る」とされることが多いですが、煩悩とは欲求や感情に属するものであり、それらを滅することが正しいとする表現は少し誤解を生じるかと考えます。
欲求や感情の無い生き物はもはや生き物ではありませんし、それは空ではなく無です。無を是とするならば今すぐ死ねばいいのであって、それは誤った三観の理解に他なりません。
断ち切るべきは煩悩ではなく我執です。欲があっても感情があっても苦が生まれなければ問題は無く、欲や感情に囚われず振り回されないこと、すなわち欲や感情に執着しないことが適切な対処となります。
次に、悟りとは我執を手放した状態ですが、悟りを開いたか悟っていないか、悟れるか悟れないかをデジタル的な0-1で解釈するのは誤解であり、悟りにはアナログ的な浅深があると考えます。どれだけ多くの我執を手放せているかどうかが悟りの深度と言えるでしょう。
要するに誰しも何かしらの悟りを持っているものですし、持ち得るものです。釈尊ほどの深度へ誰もが辿り着けるはずもありませんが、適度に心地よいところまで悟りの海へ潜っていくことは生きやすさを向上させる良い心理的運動になるかと思います。
その点で言えば、アンガーマネジメントやマインドフルネスも立派な悟りの一種でしょう。これらには怒りや感情、現在や心身に対する気付きと我執の放棄による苦の回避が構造的に含まれています。
結言
「なぜ?」を問い続けて本質へ辿り着きそこに存在する我執に気付いて手放すことが初期仏教的な方法論であり、要するにこれは楽しいことです。なぜなぜ期の子どもが示すように知的好奇心の充足は人間の本能的な娯楽であり、学問や学びとは本質的に楽しいものなのですから。