政治経済に限らず、世の中では様々な事柄が問題だとされます。
問題は当然解決されなければなりません。
ただ、どう解決するかはとても大切です。問題の解決が新たな問題の温床となっては意味がないのですから。
私たちは外科医のように、問題箇所の切除だけでなくその後の治癒やリハビリ、合併症の予防など適切なケアまで含めた長い目で問題解決を考える必要があります。
外科医のように
問題解決については社会集団を擬人化してみると分かりやすいでしょう。
社会集団は人が作るものである以上、人と同じようにどこかしら不調が生じることは必然です。人と同じように都度その不調に対処する必要があります。
何かしら問題が認知されると、とにかく問題を解決するためにドラスティックな解決方法を好む方もいらっしゃいますが、それは率直に言って無責任な態度が過ぎます。「足の調子が悪い、じゃあ切除しよう」「喉の調子が悪い、じゃあ切除しよう」なんて外科医がいたら患者は困ってしまうように、問題の大小や適切な処置方法、その後の生活なども考慮してどのように問題へ対処するかをちゃんと考えなければなりません。
根本的に必要な認識として、今現在その社会の生命が保たれているのはたとえ問題があってもその部位が仕事をしているからです。ただ切除してはその部位が持っていた機能までも損なわれることへの留意と、その部位を構成している人々への敬意は不可欠です。
例えば何かしらの問題において、ある組織が問題だとされた場合、その組織を切除してしまえば問題は解決するかと言えば大抵の場合はそう上手くいきません。現在の社会システムはその組織があることを前提として回っているのであり、ただ何も考えずにその組織を無くしてしまえば様々な部分で別の複合的な問題が生じるためです。
さらに言えば、その組織に本当に問題があるのだとしてもそこで働いている人たちのほとんどは無辜の市民です。無名の人々の献身によって現状の社会システムが機能していることへの敬意を忘れて彼らの職と人生を奪うような乱暴なやり方は、ただただ無責任な暴挙と言わざるを得ません。
無責任
暴論が過ぎるというものですが、現状の社会システムにおける問題をただ論い文句を垂れ流してドラスティックな変革を希求する人、「○○○をぶっ潰せ」「○○○を解体しろ」と騒いでいるような人は実家暮らしの反抗期の子どもと同じです。自らの生活を全て親に賄ってもらっておきながらその感謝もなく、ただただ家族の文句を言っていればそれで現実に対処できると考えている、無責任で無知で幼稚な態度だと言えます。
子どもはまだ成長途上であるためそのような言動もある程度許容されますが、大人はそれが許される立場ではありません。大人は社会の問題に対してその社会の一員である己に責任の一端があることを自覚し、問題箇所をただ切除するではなくそれが持つ必要な機能をどうやって維持しつつ問題箇所だけを上手く切除できるか、その後はどのような制度を作ってやり直すか、そういった適切で妥当で正しく問題が解決されるような方策を練ることに責任を持つ必要があります。
結言
私は旧弊の打破を不可欠なものだと考えます。停滞とは相対的に後退と同義です。外部環境の変化は止められない以上、個人も集団も生存のために環境へ適応し続ける必要があります。
ただ、明治維新しかり、フランス革命しかり、旧弊を打破する者はたとえ弥縫策であっても必死にその後をやりくりする責任があり、無責任であってはいけません。現状打破と言えば聞こえはいいですが、無責任にただ現状を破壊しようとする人は変革者ではなくただの暴徒です。