「言葉の暴力」は今や人口に膾炙した表現となっていますが、当然ながらそれに対して「言葉は暴力ではなく身体的なものだけが暴力」だとする反対意見もあります。
日本語圏ではほとんど見かけないものの英語圏ではそのような見解を見かけることができます。英語の格言にもある通りです。
Sticks and stones may break my bones
But names shall never hurt me.棒や石で骨が折れるかもしれないが、
言葉で傷つけられることは決してない。
ちなみに私は『言葉は暴力になり得る派』です。
言葉は暴力ではないとする見解
「言葉は暴力ではなく身体的なものだけが暴力」とする意見をまとめていきましょう。
まず前提として、言葉を二通りに分ける必要があります。侮辱・中傷・侮蔑・憎悪・強制・脅迫であったりするものと、特定のグループへ批判的であったり特定のグループを動揺させるようなものです。前者は暴力であり、後者は暴力ではないと主張されています。
後者が暴力ではない理由について、たしかに身体的な危害を伴わなくとも慢性的なストレスは身体にダメージを与えることが分かっています。
しかし「言葉がストレスを引き起こし、長期にわたるストレスが身体的危害を引き起こすならば、少なくとも特定の種類の言葉は暴力の一形態となり得ると考えられる」とした三段論法には飛躍があり、事実から分かることは「言葉が身体的危害を引き起こす可能性がある」というだけのものです。
また慢性的なストレスが必ずしも身体にダメージを与えるとは限らず、それが成長に繋がることもあるため「言葉は暴力である」の証明とはなりません。
他には、身体的な暴力は抗えないのに対して言葉はどう受け止めたり無視したりするかを自身で決めることができるため暴力ではないとする見解や、暴力は繋がりを断つものであり言葉は繋がりを作ることができるものだとした見解もあり、それら特徴の差異から暴力と言葉を混合することに反対されています。
個人的な見解
「言葉は暴力ではなく身体的なものだけが暴力」の見解を要約すれば暴力(violence)の定義(範囲)をどう設定するかであり、より具体的に言えばこれらの意見は「"暴力"の定義(範囲)を変える必要はない」とした見解です。
ただ、私からすれば"暴力"の代わりに"言葉"の定義(範囲)を変えているだけではないかと思います。
侮辱や中傷は”言葉”ではなく、適切で正しいものだけが”言葉”だと区切っても意味はなく、侮辱や中傷だって言葉でしょう。言葉は良し悪しの双方を併せ持つ両面性を持っているだけであり、"言葉"を潔白なポジションに配置してそれ以外を暴力とするよりは”言葉”も火や刃物と同じように使い方次第だと考えたほうが私としては腑に落ちます。
一つの概念が持つ善悪を無理に分離することはできませんし、結局その線引きだって常に不定です。今まで許されていた言葉が未来では許されなくなることは多々起こります。私たちは定義(範囲)の線引きに苦心するのではなく、より実効的な側面、現実への影響で線引きするほうが合理的でしょう。
結言
どちらが正しいわけではなく、要するに派閥の違いです。
「侮辱や侮蔑は言葉ではなく、だから言葉は暴力でない」と考えるか、「侮辱や侮蔑も言葉であり、だから言葉は時に暴力となる」と考えるかの違いに過ぎません。
どこで線引きしようとも、例えば身体的なものをバイオレンスと呼び精神的なものをオプセトリー(適当に命名した実在しない単語です)と呼んだとしても、社会的にはどちらも止めましょうとしかなりませんし、それはどちらも派閥に属していても合意されることです。
余談
英語圏へのちょっとしたアイロニー。
The blow of a whip raises a welt,
but a blow of the tongue crushes the bones.鞭の一打ちはみみず腫れをつくるが、
舌の一打ちは骨を砕く。
make balances and scales for your words,
and make a door and a bolt for your mouth.言葉のために天秤とはかりを設け、
口には戸とかんぬきをつけよ。
シラ書28章