朝田理論や権力勾配論について。
階級闘争の焼き直し
朝田理論とは「差別かどうかを決めるのは当事者自身」とした理屈です。
苦しめられた当人にしかその気持ちが分からないことは事実ですし、これは一見すると被差別者の声を尊重しエンパワーメントするための道理が通った理論に見えます。
しかしながら、この理論には客観性がありません。
客観的な判定ではなく当事者の主観の強弱で「何が差別か」が決まるようになり、この理屈が普遍化すると必的に言ったもの勝ちで声の大きい人、もっと悪く言えば暴力なり権力なりを持ってして他者の声を封じられる人の主張が通るようになります。
それによってもたらされるのは差別の解消ではなく差別の再生産です。差別を定義する権利、他者を差別主義者と認定して社会的に葬り去る権利を持つことは圧倒的な権力に他ならず、差別からの解放の論理が逆転して新たな差別を生むことになります。
朝田理論の延長線、或いは類似の理論として、厳密な学術用語ではありませんが権力勾配論があります。
これは人間と人間の間には何かしらの権力差があり、その格差を調整するために上位者は抑制的でなければならず下位者は許容される言動の範囲が広がるとした理屈です。
これらは要するに階級闘争の焼き直しです。
階級間の社会的格差を闘争によって打破することを是としたマルクス主義の延長として、階級を差別や権力勾配と言い換えただけに過ぎません。
階級闘争の課題
今更語るまでもない話ではありますが、階級闘争論には瑕疵があります。
まず前提として、不平等の打破は普遍的とは言えないまでも本質的に正義であり、そのために階級や権力勾配の理屈を用いて不平等を解消しようとする目的自体は是とされます。
しかしそのプロセス、階級闘争や権力勾配の理論を用いて弱者のエンパワーメントを制約なく無制限に行った場合、無限の権力を手に入れた弱者が強者へとすり替わって新たな弱者を生み出します。
この構造で「絶対的権力者である弱者」となるためには、言わば「予言の自己成就」のように、新たな抑圧を作り出しながら「反抑圧」を標榜することが必要になります。それはすなわち、差別の再生産と同義です。
そして不平等を解消することが正義であれば新たな強者を打ち倒すことも是であり、結局は無限に続く対立構造の再生産がもたらされるばかりで平等の達成には繋がりません。
非差別者・弱者が声を上げるきっかけとして、マルクス主義的な主張は一定の意味を持つでしょう。
しかしそれによる差別の再生産を防ぐためには、もっと倫理的な視座が欠かせません。
まずはカントの普遍化可能性への回帰が必要です。上位者、或いは差別者の排除を是とする階級闘争・朝田理論・権力勾配論はカントの普遍化可能性からして正当化されません。「他者を排除してよい」とした行動原理は普遍的に適用できないためです。そして「○○○だから他者を排除してよい」と正当化することは恣意的な区別に他ならず、それはただの差別です。
また、人は様々な属性ラベルを持っているものであり、単一属性で階級や権力勾配を判定することは誤認をもたらします。どの属性に対する差別へのケアが優先されるべきかを恣意的に区別することも立派な差別となります。
他にも、人は言いっぱなしが許される状況でただ糾弾するだけの側に立つと、際限なく無責任となります。その無責任さは問題の解決には役立たず、むしろ社会を不安定化させるばかりです。問題を解決するためには責任ある対話と補償を基礎とする紛争解決モデルが不可欠になります。
結言
もっと率直に言ってしまえば、不正義へ対抗する時に不正義を持ってすべきではない、そういった話です。不正義を打倒することは正義ですが、手段を正当化する根拠とはなりません。
極論、抗争相手のヤクザ組織を潰すヤクザ組織は、ヤクザ組織を潰したとしても正義になるわけではないのですから。
不正義を正すのであれば、たとえ困難であっても普遍的正義を持って行うこと。
このチャレンジこそ、次の社会運動や組織変革に必要な視座です。