短期的な目線と、長期的な目線。
統制と自由
秩序VS無秩序と対立させると前者が善に思えますが、統制VS自由と対立させると前者が悪く見えるかと思います。
もちろん秩序と統制、無秩序と自由は完全に一致する概念ではありませんし、あまり善悪で区分することも正しくありません。統制は外的な抑制による概念ですが、秩序は内的な規律によっても生じます。同様に自律的な自由も存在しており、無秩序と自由はイコールではありません。
ただ、いずれにしても秩序と統制、そして無秩序と自由は類似の方向性を持った概念です。より固定的な善を志向するのが前者で、より流動的な善を志向するのが後者と言い換えることができるでしょうか。
情報の規制
これら思想の違いは情報の規制についても異なる考えを生み出します。
秩序・統制を好む人はフェイクニュースや悪影響を人々にもたらしそうな悪い情報の規制を希望します。人々が正しい情報のみを認識することは公共の混乱を防いで科学や教育など社会的基盤の揺らぎを防ぎ、秩序の維持に寄与すると考えるためです。
ただしこのような規制では「誤情報や悪い情報」をどうやって区別するかに明確な基準を見出せません。基準を決めようにも人それぞれ常識や許容範囲は異なることから、政治的な調整によって恣意的に基準が決まります。
そのような恣意的な基準では、いつ自身の言動が政治的に不適切となるかが分からず、人々の言論は委縮するようになって批判的思考や代替的な視点が失われます。
さらに言えば、情報の正誤を政治的に判断する社会では、極論、与党なり独裁者なりが情報の正誤を政治的に独占することすら可能となります。そのような社会は誤った方向へ冒進してももはや止まれません。
情報を規制しないことの利点
反面、情報を規制しない無秩序・自由な社会では誤情報や悪い情報によって一時的な社会混乱が生じます。そのような混乱の中で、政治や科学、報道などへの社会的基盤に対する信頼が揺らぐこともあるでしょう。
しかし恣意的な基準によって定められる政治的な正しさを考慮せずに済むことから、無秩序・自由な社会では自由な議論と検証が可能となり、自浄作用として自己修正を行うメカニズムが働きます。批判的思考や代替的な視点も機能するため、技術や文化の革新も起こりやすくなります。自浄作用が働く土壌が整っていれば、結果的に健全な情報流通環境が形成されると言っていいでしょう。
排除と淘汰
秩序・統制においても無秩序・自由においても誤情報や悪い情報の排除・淘汰は生じます。しかしそれらは同じものではありません。最大の違いは秩序・統制が「積極的排除」であるのに対して無秩序・自由では「自然淘汰」に基づくことです。
積極的排除では法的な刑罰、或いはそれこそ市民の私刑によって断罪が実施されます。秩序・統制こそが善であり、善を揺るがす情報やそれに関わる人は悪と認定されるためです。結果として、短期的には秩序が維持されますが長期的にはシステム全体が収縮していきます。
反面、自然淘汰は受動的で時間がかかりますが、法的措置や社会的合意の醸成を伴って進行が可能です。
よって遅効性ではありますが、無秩序・自由の側が逆説的に長期の社会安定性へ資する結果をもたらします。
結言
もちろんこれら思想は本来優劣や善悪で語ることではありません。私としては長期的な安定を好む、それだけの話です。