メンタルが疲れ気味なので、「戦争から暴力を遠ざける方法」を考えてみます。
思考が迷子です。
ちなみに戦争の定義はいくつかあり、軍事的衝突を前提とした定義もありますが、今回はもっと幅広く「政治目的を達成するために生じる国家間の闘争」程度の定義で進めます。
要するに超限戦か
考えてみようと思ったのですが、考えるまでもなく超限戦が答えなような気がしてきました。超限戦は中国の軍人が提唱した概念で、軍事だけでなく、経済、金融、法律、メディア、サイバー、心理など、従来の戦争の枠を超えた手段を駆使する戦争です。手段を問わずありとあらゆる手段を使って戦争をする超限戦の理論は要するにマキャベリズムの延長です。
そもそもなぜ戦争で軍事力が用いられるかと言えば、相手の抵抗を物理的に排除可能であり、交渉や説得よりも即効性が高く、大義名分を立てて正義を理屈付けられれれば感情的に受け入れやすい方法だからであり、要するに暴力とは手段であり象徴です。
これは別に国家集団に限らず、気に入らない相手を排除したいと望んだ場合、その象徴的な方法の一つが暴力です。暴力で対立相手を排除する物語構造は何も現実だけでなく様々なフィクションでも描かれている非常に普遍的な人間の心理だと言えるでしょう。
逆に言えば、暴力を用いることは感情的な象徴であり必ずしも合理的最適解ではないと言えます。暴力は戦争の必須要素ではないのかもしれません。
と、ここまで考えてみましたが、結局は暴力の定義次第な気はします。
暴力を物理的なものに限定すればこの推論を進めていく意味も出てきそうですが、経済による植民地支配だって金融資本による属国化だって広義の暴力だと言えます。洗脳による心理的支配だって法律的な差別だって同様に広義の暴力です。
相手の意図へ配慮せずこちらの要求を押し通そうとするありとあらゆる行為が広義の暴力であり、そして戦争とはまさにそれそのものでしょう。
要するに「戦争から暴力を遠ざける方法」もなにもなく、そもそも戦争とは暴力の一形態であり分かち難い概念なのだと思われます。
結言
なんとなく中国の超限戦理論が上手く腑に落ちていなかったのですが、考えをまとめていたら納得がいったような気がします。
超限戦は”戦争”の定義を見直しているというよりも”暴力”の定義を見直した結果から生じた概念なのかもしれません。
余談
超限戦は中国が考え出した「戦争の新しい概念」と提唱されがちですが、そもそも軍事力以外で他国を支配するやり方は昔からありましたし、どちらかと言えば西欧社会のほうがそれは得意分野じゃないかと、歴史好きな私は思っていたりします。
経済で他国を支配したり法律や新しい倫理で他国を従えたりするのは、まあ辛辣な物言いですが欧州の特技じゃないですか?