最悪の民主政治と最善の独裁政治のうち、後者はほぼ幻想に等しい。
独裁者を求める民衆
如何なる政治システムであろうとも制度疲労は生じます。民主政治であれば汚職や腐敗、過度な社会的分断やポピュリズムなどが代表的な制度疲労です。
原理主義的な民主主義者を除き、人々はこれら制度疲労の解消を希求してドラスティックな政治改革のための独裁的強権を許容するようになります。或いは戦争などの外乱が生じた場合でも同様です。民主的意思決定は迅速性に欠けるため、喫緊の事態において独裁的権力者が民主政治から生まれることは歴史の事実です。
本質的に独裁制とは不可逆的なものであり、権力の集中は容易ですが権力の分散はとても難しいものです。
そのため、一度権力の集中を引き起こしてしまうと再び民主的な政治システムを取り戻すためには長い時間が掛かることになります。
それを理解している原理的な民主主義者はいかなる場合でも独裁的な政治改革を是としません。しかし喫緊の事態において集団が短期的な利得に囚われて独裁的な権力行使を容認する方向へ向かうことは止むを得ないものでもあります。
寿命を縮めるような薬であっても今の苦痛を避けるためにはそれを飲もうとする人は必ずいるように、後で困ると分かっていても今の楽しみを優先する人はいるように、民主政治の迂遠さを嫌い独裁的な即断を求める人は必ずいます。
理想的な独裁者の幻想
そのような場合、時に比較対象として語られるのが「最悪の民主政治」と「最善の独裁政治」です。汚職や政治腐敗によって民衆の声が反映されず機能不全となった民主政治と、人々にとって望ましい改革が矢継ぎ早に実施される最善の独裁政治、そのどちらが良いかと問われれば人によって意見が割れるところでしょう。
ただ、この対比は少し欺瞞的です。
実際には「最善の独裁政治」はほぼ存在しない、少なくとも長期的には存在しえないためです。
民主政治が根底に欠点を抱えているのと同様以上に、独裁政治も瑕疵を持っています。権力の集中による腐敗の程度は民主政治の比ではありませんし、権力の集中は各種自由を制限することから社会の進歩自体が生じ難くなります。そもそも世代交代の際には必ず騒乱を引き起こすか、血統など前時代的な仕組みによる正当性の維持へ逆戻りしなければなりません。
よく民主政治における利権や世襲が問題視されますが、それらがちゃんと問題視される民主政治はまだマシであり、独裁政治はそもそも最初から利権や世襲で腐敗していると言っても過言ではないでしょう。
よって真に理性的な権力者、最善の独裁者がこの世に存在するのであれば、これら独裁政治の根本的な不安定さと問題を是とするはずもなく、集中した権力が腐敗する前に直ちに権力の分散を行うはずです。それこそムスタファ・ケマルのように安定的な政治システムの移行まで一時的に独裁者として改革を行うこともあり得るでしょうが、いずれにせよ独裁を手放す独裁者だけが善い独裁者です。
そのため、最善の独裁者とはまず存在し得るものではなく、存在したとしても極めて短期間で歴史の表舞台から姿を消すことになります。
要するに、最善の独裁者とは一種の幻想です。
結言
私はどちらかと言えば原理的な民主主義者のため、喫緊の事態であっても権力を集中して一元的に意思決定を行うのではなく権力を分散して掣肘できる体制を維持したほうが長期的な弊害は少ないと考えます。
たしかに最善の独裁者がいれば、そのほうが民衆のためにはなるかもしれません。
しかしそれは幻想です。
最善の独裁者が本当にいたとすれば、その人は理論上、自ら王冠を捨て去るはずですから。そしてそんな独裁者は歴史的にも極めて稀であり、それへ期待するのは尋常ではないほど期待値の低いギャンブルと同義です。