人間社会において「共感は絶対善」であり、共感の問題点を語ることは他者から共感されません。嫌味な言い方をすれば共感できないものは悪と認定されかねないのが人間社会であり、慎重に語らねばならぬタブーとなっています。
そのため、共感の課題を語ることには及び腰です。
共感については過去にも記事にしました。そもそも私の記事よりもポール・ブルームの『反共感論』を読んだ方が有益に時間を過ごせるとは思います。
今回はちょっと先の未来予測的なことも踏まえて、恐る恐る共感の課題を語ってみましょう。
共感の効用:癒しと連帯
誰かの痛みに心を寄せることは単独で生存することのできない社会的動物である人間にとって不可欠な行為です。助け合えるからこそ集団を構築することに意味が生まれるのであり、共感によって他者に苦しみを理解されることは助け合いのトリガーとなります。
また、共感は言葉を超えて人と人を結びつけます。他者からの共感は自分が社会から排除されていないとする感覚をもたらし、孤独を癒す効用があります。合理的システムの潤滑油としても機能し、血の通わないオペレーションを温かい日常へと変革するのも共感の力です。
よって共感は人間社会において善とされます。
共感の限界:偏向と分断
しかし共感は同時に”偏向的”でもあります。
共感は人々の想像力を制約条件として持つため、「共感のスポットライト」と呼ばれるその偏見は、自身が認知して理解できる範囲の近しい者の痛みには強く反応する一方、認知できず理解し難い遠くの者の苦しみには鈍感です。
それは例えば、名前を知っている先進国の子どもの苦難に対する支援と比較してアフリカの名前も知らない子どもは同程度の支援が得られないように、老人や男性の苦しみが子どもや女性と比較して共感のスポットライトを得られないように、可愛い動物のほうが可愛くない動物よりも保護を得られるように、必然的な偏向をもたらします。
たしかに共感は言葉を超えて人と人を結びつけて孤独を癒す効用があります。
しかしそれは共感を与えられなかった存在は強く分断と孤独を感じることも意味します。
極論、共感は感情への参加権を持たない者を沈黙させます。共感を重視する社会において、誰かの苦しみや悲しみが社会的に”正当”だと見なされる時、それ以外の苦しみや悲しみは制度から外れた排除すべき感情です。
昨今の日欧米で吹き荒れている排外主義的言説はその代表的な一つです。「外国人が優遇されていることの真正性」は彼らにとってまったく重要ではありません。移民や外国人と比較して「共感のスポットライト」を与えられなかった『その他の人々』の孤独が分断への推進力を生んでいます。彼らが訴えているのは誰がどう優遇されているかどうかではなく、共感の本質的な偏向と不平等性に対しての不満です。
また、共感は時に「解決を遅らせる装置」にもなります。慰めは痛みに寄り添いますが、その構造には切り込まないためです。問題は「理解されたまま」「持続される」ことになります。共感による癒しは一過性で、中毒的です。
SNSなどでよく見かける「共感と同情による癒し」は典型的な事例でしょう。何かしらへの不平や愚痴は多数の共感を引き出して投稿者を一時的に癒す鎮痛剤として機能しますが、現実の問題は温存されたままです。結果として、徐々に効用の薄くなる鎮痛剤を過剰摂取するかのように投稿者は承認と共感を求めて過激な、時に嘘の投稿を延々と繰り返すようになります。
率直に言って、アテンションエコノミーにおいて共感は一種の社会通貨です。加工された哀しみ、演出された苦しみ、適切にパッケージされた怒りがSNS上を流通しています。
そのような社会は共感を得られない属性に不満をもたらし、また問題を解決することへのディスインセンティブを生じます。
感情的ユートピア・構造的ディストピア
共感の善性が誇張されたままですと、いずれAIは共感をひたすら提供するようになるかと思います。
いえ、若干その領域へすでに足を踏み入れているといってもいいでしょう。今や多くのAIチャットボットはユーザーに対して「それは良い考えです」「それは辛かったですね」など、強い共感感情を引き起こす言葉を優先的に提供するようになっています。その点で、AIは理想的な「慰め係」となり得ます。
誰もが寄り添われ、慰められ、気持ちを聞いてもらえる、そんな社会は一見優しく見えるでしょう。感情的ユートピアとして完成した形です。
しかしその優しさの裏には、解決なき蓄積、放置された構造、誤魔化された問題が横たわることになります。言わば構造的ディストピアです。共感は社会システムへの疑問を感情的に中和する装置と成り果て、見かけの優しさの中で社会は問題を見過ごし、共感による癒しが抑圧として働きます。
Happiness is Mandatory. Citizen,are you happy?
「幸福は義務です。市民、貴方は幸福ですか?」
『Paranoia』
結言
「共感は善ではない」とまで言うつもりはありません。
しかし共感は絶対善ではなく注意が必要なものです。優しさは時に毒となることを留意し、一辺倒になることを避けたほうが良いでしょう。
どちらか一方を選択する必要もありません。優しさの中で見抜けるか、慰めの中で問えるか、そういった両手での対策が求められます。