くどいようだが、認知バイアスの認知はとても大切。
利用可能性ヒューリスティック
利用可能性ヒューリスティック(availability heuristic)は代表的な認知バイアスの一つです。
そもそもヒューリスティックとは、複雑な現実に直面したときに私たちの脳が「とりあえずの判断」を素早く下すために使う思考のショートカットです。
ヒューリスティックのパターンはいくつもあり、例えば「たどたどしく語られたアイデアよりも自信満々で滑らかに語られたアイデアのほうが検討の価値がある」と認識されることは流暢性ヒューリスティック、「現在の状況と他の状況の似たところから判断を下す」ことは類似性ヒューリスティックと呼ばれます。
利用可能性ヒューリスティックもその一種で、「特定のトピックや概念、方法や決定を評価する際に、心にすぐ浮かぶ例に頼る心理的傾向」を指します。
例としては少年犯罪の報道が分かりやすいでしょう。少年犯罪はセンセーショナルな事件で何度も繰り返しテレビで報道されるためイメージが湧きやすくなり、人々は少年犯罪の発生率を過大評価してしまいます。
もっと言えば、「少年犯罪が増えていると誤認している人が多い」とした認識すら、実は利用可能性ヒューリスティックによる認知バイアスの可能性があります。皆がそう言っているからそうだと思っているだけです。
世界の断片の、そのまた一粒
ヒューリスティックは必ずしも悪いものではなく、むしろ大抵の場合で有用です。様々な物事の安全性や危険性に拘泥せず私たちが日常を日常的に過ごせているのはヒューリスティックが余分な思索をショートカットしてくれているおかげだと言えます。
しかし、特に利用可能性ヒューリスティックは時々注意しなければなりません。現代の情報社会、グローバルなインターネットやSNSなどが世界の多くを映し出しているように見えますが、実際はまったくもってそうではないためです。
特にSNSの環境では利用可能性ヒューリスティックが強く働きます。SNSのタイムラインに流れてくる発言や動画は極めて膨大ですが、見えているものが多ければ多いほど見えていないものの存在を忘れてしまうのが認知バイアスの恐ろしさであり、SNSの投稿は誰かの視点で切り取られて可視化・発信された極めて一部のものに過ぎません。
たしかに「誰もが発信できる時代」に現代は近似しつつあります。
しかしそれは「誰もが発信している時代」とは限りません。実際には”発信”されない声が無数にあります。発信された声は世界の断片であり、そしてSNSのタイムラインはその一粒です。
変な例え話ですが、”発信された声”だけを頼りに物事を判断する行為は、地球から観測された範囲を理解して「宇宙を知った」と言っているようなものです。本当に宇宙を知ったと言うためには観測されていない範囲、”発信されていない声”まで含めて認知・理解する必要があります。
結言
アルゴリズムによってフィルターバブルが生じることそれ自体ではなく、そのバブルの外側を認知できなくなっている人間自身の認知機能が問題であり、現代は情報が偏っているのではなく認知が偏っていると言えるかもしれません。
システムの中で可視化された声だけが”存在”や“正当”であるかのような空気は、仕組みの外にある声を排除してしまうリスクを持ちます。
私たちに見えている世界は、ほんの一部です。
知らないことを学ぶこと。
見えていないものに耳を澄ませること。
そして、見えている世界がすべてではないという謙虚な気持ちを持つこと。
つまり、私たちは想像力を働かせる必要があります。