批判も表現の自由。
ならばゾーニングなどが必要では?
まあ、ただの思い付きです。
【不快な表現の規制】VS【表現の自由】
ネット上では「表現の自由」関連で不定期に炎上している様を観測することができます。ちゃんと探せばきっと毎日どこかしらで燃えているのでしょう。
雑な理解ではありますがその大枠としては【不快な表現の規制】と【表現の自由】のせめぎ合いです。誰かが不適切と思う表現が炎上し、それに対して表現の自由から擁護が生じる流れが飽きるほど繰り返されています。
どちらの立場を支持するかと言えば、私としては自由主義寄りではあります。表現の自由は基本的な人権の一つとして擁護されるべきです。
しかし極端な事例ではありますが多数の人がいる公共の場で「火事だ!」と嘘をついて混乱を引き起こす自由は認められないように、放埓な表現が無制限に許容される必要はありません。人権は誰しもが持つものである以上、人権同士が衝突する場合は一定の調整と制約が必要になります。
その帳尻合わせとして、ある表現がヘイトや差別を助長したり公共の利益を損なうと思われるのであれば、表現そのものを潰すのではなくゾーニングやレイティングをすればよいと思いますし、実際そうやっているパターンが一般的です。双方の権利を最大限に残すためには互いに多少の自由と権利を手放す必要があり、”表現を公共から隠す不自由”と”不快な表現の存在を我慢する不自由”を強いられることは止むを得ないでしょう。
どれをどこまでゾーニング・レイティングするかは、まあ倫理や道徳には時代性がありますので、都度都度調整して動的な均衡を保つ他ないかと思います。
批判のゾーニング
炎上騒動に参加したくはないので遠くから観察しているのですが、ふと、どうにも片務的だなと思いました。炎上の最中において、表現者側には表現の規制や自由の程度が問われるのに対して、批判側にはその程度が問われていないように感じます。
もちろん他者の表現に対する批判は自由です。批判も立派な表現の自由であり、擁護されるべきでしょう。
よって「批判をすることは自由だ」は当然正しい理屈ではあるのですが、そうであれば批判をする表現の自由も無制限ではなく、必要に応じてゾーニングのような制約を受ける必要があるはずです。人格否定や誹謗中傷といった直接的な罵倒に限らず、表現の場を奪う類のキャンセルやいじめなども含めて表現者の権利を侵害する批判はそれこそが放埓な表現そのものであり、不快な表現と同程度に規制をされて然るべきでしょう。
大まかに考えてみるならば、例えば『他者の表現に対する批判は直接当人の目に触れないよう行うこと』などはどうでしょう。
一切目に付かないようにするのは現実には難しいとはいえ頑張って目に付かないようにゾーニングする制約を受けるならば表現者と批判者の権利は対等になるかと思います。居酒屋で上司の批判をする人だって当人に直接は言わないように、ネットでの批判だってわざわざ当人へ直接投げ付ける必要はありません。度が過ぎればそれは一種の規制されるべき加害行為です。
私的制裁が法的に許されていない以上、たとえ他者の表現によって何らかの精神的被害を受けたのだとしても報復的な加害が許容されるわけもありません。批判者側にもTPOに応じたゾーニングや制約が必要でしょう。
結言
まあ要するに、他者の表現が不快であっても言いたい放題言っていいわけじゃなかろう、それだけの話です。
表現をどうゾーニングするかは先述したように社会的議論の上で動的均衡を保つべきものですので直ちに決めることは難しいでしょうが、批判のゾーニング概念は議論の俎上に載せてもいいのではないかと思っています。