忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

政治家に対する制度的フィクション

 

 選挙の前後や政治家の不祥事報道がある度、「政治家なんてみんな信用できない」といった言説が各所で飛び交います。

 しかしこれは論理的に誤った一般化であり、あまり適切ではありません。個別の政治家の資質や言動を批判することは民主主義の健全な営みですが、「政治家全般が卑しい」とした風潮は民主主義の制度そのものを蝕みかねないためです。

 

政治家に無能が増える原因

 過去にも同様のことを書きましたが、再度述べていきましょう。

 

 優秀な人ほど職業選択の自由があります。そして優秀な人は社会的な尊敬を得られずリスクと報酬が見合わない職業にあえて進む理由はありません。

 つまり政治家が「卑劣と罵倒される信用されない仕事」として社会的に認識されている場合、優秀な人は政治家以外の道を選ぶことになり、結果として、政治家の評判が低い社会では世襲や無能など「他に道がなかった人」や「信念だけで突き進む優秀ではない人」が政治家を目指す確率が高まります。

 この構造はある意味で予言の自己成就的です。「政治家は信用できない」と言い続けることで信用できない政治家が増えていくのですから。

 

皆が忌避する労働

 政治家とは、公共のために財を分配し、無数の市民からの陳情を受けて利害調整を行う公務員です。政治家の仕事は延々と他者からお願いをされて各所に頭を下げて回ることの連続であり、極めて煩雑で感情労働的な側面が強いと言えます。また利害調整は成果が目に見えづらく、常に批判に晒されざるを得ない仕事です。

 言わば政治家とは本質的に皆がやりたがらない面倒な仕事であり、だからこそ形式的にでも「先生」と呼んで社会的な敬意を表す必要があります。

 

 これは学校の先生と同じです。実入りが少ないとしても「先生」「聖職者」として実効性のある社会的敬意が存在するからこそ教員の職に志ある人が集まるのであり、敬意が示されずただの低賃金労働者として扱われる地域や社会では学校の先生の質も低下する一方となります。

 その仕事は尊いのだとするナラティブ、尊厳を守るための制度的フィクションは儀式的で非現実的な空論のように見えるものの、実際は強力な合理性を持っています人々からフィクションが失われれば優秀な人材も集まりません

 もっと言えば、「先生」と呼ばれる社会的役割は教師・医者・政治家を問わず人から何かを頼まれることが仕事です。つまりその気になれば極めてあくどいことを実行し得る立場にいる人々が「先生」と呼ばれます。

 そのような仕事・システムの"崇高さ"を保つには金銭や利得では限度があり、制度的フィクションによるナラティブだけが品位を保つことに役立ちます。過度に金銭や利得を用いては品位をむしろ貶めかねません。

 逆説的ですが、高度な倫理観と優れた品位を持つ社会的地位を作るためには、周囲がまずその社会的地位に対して讃える必要があります

 

 もちろんこれはマクロな視点です。ミクロな個人的視点からすれば「その仕事が偉いとか偉くないとかではなく、その人が偉いかどうかだろう」と考えることも自然でしょう。

 ただこれは合成の誤謬的なもので、特定の職業倫理を高めるためにはミクロな個々人の判断を足し合わせるのではなくシステマチックに集団が制度構築をする必要があります。

 

結言

 信頼できる政治家を増やすには、まず政治家という職業への信頼を回復する必要があります。

 そしてそれは双方向的です。政治家自身による信頼回復のための努力も当然必要ですし、市民側も制度的フィクションの意義について再考する必要があるでしょう。少なくとも乱雑な政治家害悪論を打つようなことは控えたほうが無難です。