"共感"に関して物申す時はとても気を遣う必要があります。
私としては共感のことを”火”や”刃物”のように「有益だけど振り回してはいけないもの」と考えているのですが、社会においては絶対的な善として道徳的聖域となっています。昨今のSNS時代において「いいね」の数は社会的通貨だとすら言えるでしょう。
そのような時代に共感を批判的に取り扱うことは反発を受けるのも止む無しです。倫理や道徳のテーマとしてはなかなかに取り扱いが難しい概念だと感じます。
それでも、思考実験的に考えていきましょう。
今回は『共感』と『多様性』についてです。
共感社会と多様性社会のアンマッチ
自身が認知できなかったり理解できなかったりする対象には共感が生じません。相手と同じ感情を経験する情動的共感の手前、相手の感情を察する認知的共感の段階ですら対象によって差は生じますし、認知した共感も自分が経験したり理解できる範囲での感情に限定されます。
人間や哺乳類ならばまだしも昆虫や植物に共感できる人は稀であり、無生物であれば尚更です。もしも宇宙人が地球へ来て「地球は程よい重力場で時空間の存在が歪む感覚がどうこう」と言ったとしても、私たちはそれがどんな感情なのか共感することはできないでしょう。
さらに共感にはスポットライト性があります。
この世のありとあらゆる感情に共感できるわけではなく、そしてそれは極めて局地的です。共感のスポットライトは一方を明るく照らし出し、もう一方を暗がりへ追いやります。
典型的な話としては犯罪の被害者と加害者へ同時に共感することができないように、嫌な事例ですがアメリカで黒人への同情がロストベルトへの無関心を生みトランプを生み出したように、そしてヨーロッパで移民への同情が無視された人々による国粋主義を勃興させているように。
同じ感情を共有し合える仲間と連帯できる共感の美徳は、そうではない人々には優しくできない悪徳と表裏一体です。
対して、多様性とはある意味で共感の真逆です。
多様性社会とは「自分が理解できない文化や特性であっても多種多様なその存在を許容しなければならない」社会であり、共感によって構築することが不可能な社会です。なにせありとあらゆる他者を全て認知・理解することは物理的に不可能ですし、共感ではスポットライト性によって必然的に「こちらは同意できる、こちらは同意できない」と感情的区別が生じるためです。同種を結びつける紐帯である共感では異種の組み合わせとなる多様性を構築できません。
共感社会と多様性社会は、構造的に両立することがとても難しいものです。
結言
「自分と似た者」に対して強く働く共感。
「自分と似ていない者」を擁護する必要がある多様性。
人類社会はどちらを重視した社会を構築していくべきでしょう?
答えの無い話ではありますが理想論で両取りできる類のことではないため、倫理と道徳の名のもとに身近な哲学的問題としてちゃんと向き合う必要があるかと思います。