目の前の人の言葉に傷つくとき。
環境の変化に不安を覚えるとき。
状況の理不尽さに怒りが湧くとき。
それらすべては外部の出来事に原因があるように見えて、実際は自分自身のフィルターを通して認知されたものに過ぎません。
翻訳機
例えば綺麗な赤い花が目に映ったとします。
それ自体に「美しさ」が存在しているわけではありません。網膜が光の波長を受け取り、それが神経を通して電気信号へと変換された結果、自身の脳が「これは赤い」「これは花だ」と認識して、さらに過去の記憶・経験・知見といった背景情報がその赤い花を「美しい」と感じさせます。同じ情報を視覚から得たとしても脳の処理が異なれば人によって別の感想を持つことでしょう。
音も同様です。誰かの声が鼓膜を振動させて脳に電気信号を送った場合、それを「優しくて好み」と思ったり「怒っていて不快」と受け取ったりするかは脳の解釈次第で分かれます。喜怒哀楽といった感情を読み取るのもやはり記憶・経験・知見といった背景情報に依存するものです。
他の感覚器官も同様です。全ては物理的な刺激を受け取り、それを脳が意味付けしています。私たちは世界そのものを直接認識しているのではなく、自身の脳が翻訳して意味付けした世界に生きているといっても過言ではありません。
絶対的な自己決定権
この点について理解を深めると、感情についても少し見方が変わります。
私たちは外部の出来事を原因として受動的に感情が”生じる”と認識しがちなものですが、実際は外部の出来事が直接的に感情を生じることはありません。前述したように五感を通して得た刺激を翻訳して意味付けしているのは脳であり、感情を生み出しているのも脳です。
簡単な例として、ホラー映画を見た時に「悲しい」「苦しい」と恐怖を覚える人と「嬉しい」「楽しい」と快楽を覚える人がいるように、外部の出来事とそれによって生じる感情はイコールではなく人それぞれです。
要するに脳です。外部の出来事をどう受け取るかは全て個々人の脳が決めています。
そしてこの機能は実際のところ受動ではなく能動です。勇気を振り絞ったり苦難に立ち向かったりすることは自らの意思で実行可能なように、感情は能動的に生み出すことができます。
それはすなわち、五感で受け取った外部の出来事からどんな感情を出力するか、どう受け取るかを決めるのは自分自身で決めることができることを意味します。苦しみを感じることも感じないことも、喜びを感じることも感じないことも、すべて自分の選択次第です。
ある意味で残念ながら、脳はとても優秀な器官のため、人間の手を煩わせないように大抵のことは自動で処理してくれています。反復や条件付けによって多くの物事を無意識的に実行できる、実に素晴らしい器官です。
ただ、その優秀さをちゃんと意識しなければ自動的で無意識的な出力に翻弄されてしまいます。実際は意識的にその出力を調整することが可能なのに。
結言
例えば誰かの言葉に傷ついた時、「これは攻撃だ」と受け取るか、「何かストレスを感じているのだろうか」と感じるか、脳の選択の違いによって出力される感情はまったく異なるものとなります。
状況の変化についても同様に、「不安だ」と感じるか、「新しい挑戦だ」と捉えるかでやはり意味付けは大きく変わることでしょう。
その意味付けを脳の自動的な処理に任せていると、繰り返しで条件付けされた無意識的な出力に翻弄されてしまいます。意志を持って、自分で意識的に選択することが肝要です。
自らが自身の感情に主導権を持つこと、世界の意味を自身で再構築すること、すなわち自らが見ている世界は自らが編集した世界であるとした認識を持つと、少し自由になれるのではないでしょうか。