久しぶりに「権力の監視」のワードをSNSで見かけたので、以前よりも少しストレートに批判してみます。
マスメディアは監視される側
権力の監視はマスメディアの「使命」や「目的」だとする言説を時々見かけます。
しかしマスメディアは第四の権力(Fourth Estate)と呼ばれるほどの影響力と権限を持つ以上、本来は監視する側ではなく監視される側のはずです。率直に言って、報道機関や関係者が自らを「権力の監視者」だと位置付けることは、自己免責的な逃避に等しいと思っています。
正当な権力の監視者
そもそも権力の監視は誰の仕事かと言えば、民主主義においては明白であり、主権者たる国民の仕事です。そのために民主主義国家では選挙や請願、デモや情報公開請求などの手段が制度化されています。
もちろん国民が権力を監視するためには情報が必要です。マスメディアの本来の役割はその情報を収集・提供することにあります。
しかしその領分を超えて報道機関が権力の監視者として振る舞うことは、国民の役割を代行・強奪する行為に他ならず、制度的にも民主主義的にも不適切です。
自己認識に過ぎない
さらに言えば、権力の監視はマスメディアの「使命」や「目的」だとする言説は、せいぜい倫理綱領やジャーナリズム憲章、業界のガイドラインなど報道界内部の規範に基づく理屈であり、法的根拠はありません。そしてそれら規範の制定には市民が参画しておらず民主主義的に妥当な手続きが取られていない以上、公共的な正当性を欠いています。
要するに「使命」や「目的」は、報道機関による理想的自己像の演出に過ぎず、公共性を装うことで批判を回避するための世論操作に他なりません。
本当に望むのであれば
報道機関が権力の監視者としての”機能”を持つことは否定しません。ウォッチドッグジャーナリズムは不可欠です。
しかしそれを「使命」や「目的」として市民に並び立ちたいと思うのであれば、いくらかの制度設計が必要になるでしょう。
例えば今よりも強固で透明性をもった外部レビューは不可欠です。新聞や放送局など各社がそれぞれ報道を監視するために市民を含めた制度・委員会・センターなどを設置していることは適切かと思いますが、そもそもそれらは公募で無かったり、制度的独立性が担保されておらず報道内容に対して強制力が無かったりすることから、現状では外部からのレビューが充分に行われているとは言い難いでしょう。透明性や方法論についても不足しています。
もちろん私企業として編集方針に口出しされることを拒む権利はありますが、そうであれば私企業としての権利以上のことは主張すべきでないでしょう。TOYOTAの声が市民の声ではないように、市民の声を代弁する権利は私企業にはないのですから。
真に市民と共に権力の監視者となるならば、理念的言説に留まらず制度上の責任と義務を定義すべきであり、外部レビューによるCheck(評価)とAction(改善)を拒まず、むしろ編集方針を変えるくらいの気概が必要です。そこまで市民に寄り添って初めて市民の声を代弁する正当性を得られます。
結言
ちょっと厳しい論調となりましたが、私は別に「マスコミは潰れろ」とか思うような過激派ではありませんし、むしろ健全なジャーナリズムは民主主義社会にとって不可欠だとすら思っていますので、ジャーナリズムの倫理に基づいたActionを期待しています。
余談
メディアバイアスも私企業だから許されます。私企業なのだから編集方針を独自に制定して偏向することは基本的に問題ないです。一部メディアは公平性や不偏不党を法的に要求されますが、それもそこまで厳しい拘束ではありません。
よって偏向については受け取り側が気を付ける必要があります。