ネットを彷徨っていたら「謝罪」と「許し」についてのちょっとした議論を見かけたので、個人的な思索を整理してみます。
類型整理
謝罪や許しの姿勢について、いくつか分類をしてみましょう。
まず謝罪を受け取る側には【関係性重視型】と【自己完結型】があると考えます。
前者は関係性を重視して、謝罪と許しを関係再構築の第一歩と捉えます。後者は感情や正義に基づいて、気が済むか或いは行動で補償されたかなどが許しの判定基準です。
謝罪を受ける、つまり被害者側は加害者を許すかどうかを選択できますので、どちらを選んでも正解不正解はありません。
次に謝罪側の意図として、「自己の非を認める行為としての謝罪」と考える【目的論型】と、「相手から許しを求める行為としての謝罪」と捉える【結果論型】があるでしょう。
前者の場合は相手から許しを得られるかどうかに関係なく謝罪が発生します。後者の場合は相手の許しが得られるかどうかが重要なため、相手が自己完結型で許す気配を感じられない場合は謝罪を行わない選択を取る場合があります。
謝罪側の意図は謝罪を受け取る側の姿勢に影響を受けるため、どちらが正しいかは一概に言い難いところです。
最後に権利の均衡において、謝罪と許しによって手打ちが生じると考える【貸付型】と謝罪だけでは不足していると考える【要求型】がいます。
前者は相手の謝罪を受け入れて水に流す寛容を示すことで一定の借りが生じたうえで対等な関係にリセットされると考え、後者は謝罪の先にある償いがあって初めて対等な関係へリセットされると考えます。もっと単純に言えば、謝罪と許しのセットで概ね終わりなのが前者で、後者はそこからが始まりです。
概ね、類型としてはこのように分類できそうです。
ちなみに私はこの分類で言えば【関係性重視型】【目的論型】【貸付型】です。やらかした時は謝罪をしますし、被害を受けた場合は謝罪を受け入れて、水に流してリセットします。
借りを要求したり蒸し返したりはしないのですが、それは単純に記憶力がゴミクズで被害を受けたことを忘れるためです。
許しに対する姿勢の差異に関する検討
謝罪を受け取る側の姿勢に関して、もう少し深掘りしてみましょう。
【関係性重視型】、すなわち謝罪に対して寛容を志向する人は、次のどれかしらの特徴を持つものと思われます。
◆共感性・・・相手の立場や感情を理解しようとする
◆関係志向・・・対立よりも調和を優先
◆責任意識・・・誰しも過ちを犯す可能性を認めている
◆時間志向・・・過去よりも未来を重視
対して【自己完結型】、許しに対して慎重な人は次のような特徴を持つと考えます。
◆正義・公正・・・過ちには相応の償いが必要だと考える
◆境界認識・・・他者ではなく自己の尊厳や感情を優先
◆対称性・・・謝罪によって許しを強要されることへの不信
どちらがどうと言うことではなく、シンプルに性格の違いで説明が付きそうです。
寛容のメリット
先に述べたように謝罪を受け入れるかどうかは被害者側に選択の権利があり、寛容であるべきかどうかの正解はありません。
そもそも「寛容は美徳か」どうかは実際のところ文化的な差異が大きく、一概に言えないものです。水に流すことを良しとする地域もあれば、公正こそが重要だと考える地域もあります。
とはいえ一応、寛容であったほうがいいと思う【関係性重視型】の私としては、その利点を少しばかり挙げてみようかと思います。
寛容であること、許しを与えることは自らの内省力を高めることに繋がります。自己の感情や動機を理解できると衝動的な反応を抑えることが可能です。
寛容であろうと努めれば他者理解も深まるでしょう。相手の立場や感情を思考できれば一面的な物事の理解を避けることができます。
寛容である人は双方を選択できることも強みです。常に寛容でなければならないわけでもなく、時と場合に応じて寛容を使い分けられることは強みと言えます。
寛容であることは自らの言動が他者に与える影響を引き受けている点で、責任感の一種だとも言えるでしょう。感情を抑制し、信頼と責任を自ら受け持ち、力の倫理的な運用を行う、成熟した態度と言えます。
要するにリベラルアーツ的なアレです。
結言
まあまとめてみましたけども、結局はパターン次第なので絶対的な正解は無いです。
100回くらい過去の失敗を蒸し返されて被害者が咎めてくるようなシチュエーションと、致命的なやらかしをしておいて謝ったんだから許せよと加害者が要求するようなシチュエーションでは、「謝罪」と「許し」の意味合いがまったく異なりますので。
そもそも他者に強要するようなことでもありません。他者がどう考えるかは他者の自由であり、自分がどうありたいかだけの話です。
ただ、まあ、私個人としては水に流す派です。閉じていく方向よりは広がっていく方向を好みます。