忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「正しい/間違っている」と「賢い/愚か」は別レイヤー

 

 他者の意見や認識が「正しい/間違っている」ことと、その人が「賢い/愚か」「理性的/非理性的」かどうかは混同すべきではありません。

 

一言で言えば

 前者は論理の妥当性や事実との整合性に関する評価であり、後者は人格評価で、それらはまったく別の話だからです。

 

二言以上で言えば

 他者の意見が間違えていたとして、その相手を愚かだと考えることは単純に間違いです。意見の正誤と人格や知性は必ずしも連動していませんし、因果どころか相関だってありません。

 極端な話、どこか他所の国に居る世界最高峰の物理学者が、日本の千葉県で潮干狩りをする時に獲れる貝の名前を知らなかったり間違えたとして、その物理学者を愚かな人だと考えることはおかしな話でしょう。

 意見や認識の正誤は、それが論理的に妥当か、事実と整合しているかといった純粋に”思考の内容”に関する判断であり、その意見や認識を持つ個人の人格や知性とは関連性の無い事柄です。

 「千葉県で潮干狩りをして獲ったこの貝は、たぶんオオシャコガイだと思う」と私が言おうが、世界最高峰の物理学者が言おうが、どこのどんな人格の誰が言おうが関係なく、千葉の潮干狩りでオオシャコガイは獲れませんので間違いであり、間違いと人格は連動していません。

 賢い人が常に賢いことを言うわけでもなく、理性的な人が常に理性的なことを言うわけでもなく、ましてや意見の正誤と人格や知性は別レイヤーの話です。

 たとえ間違った意見を述べたとしても、たまたま誤解していただけかもしれませんし、ど忘れしただけかもしれませんし、状況に合わせて嘘をついているのかもしれません。少なくとも相手を愚かと断定するほどの情報はそこにはないでしょう。

 

 ちなみに、やや皮肉的ですが、反対も同様です。正しいことを言う人が必ずしも人格的に優れて高い知性を持っているとは限らないので気を付ける必要があります。

 

 思うに、賢さや理性は意見や認識の正誤といった静的な形では現れません。

 知性とは自らの知識を検証し、他者の意見に耳を傾け、対話を通じて理解を深めようとする動的な姿勢にこそ現れるものです。結果ではなく態度にこそ知性が宿るのではないか、「偽りても賢を学ばんを、賢といふべし」ではないか、そう思います。

 

結言

 シンプルな話で、対話や議論において人格攻撃をするのはよくない、という話です。残念ながらよく見かけるので困ったものですが。それは論理的に誤りですし、話し合いのお作法にも反しています。

 

 一つ、ありがちな思考パターンをみてみましょう。

 「意見と人格を混同することは間違っている。そんな判断をするなんて、なんて愚かなんだ」

 これがまさに駄目な事例です。

 ただ意見や認識が間違えているだけで愚かと判断すべきではありません。

 

 

余談

 ちなみに、TPOを弁えていない戯けた発言をする人は人格や知性を疑われても仕方がありません。意見の正誤に基づいて人格評価をするのは誤りですが、「どう意見を出したか」は意見の正誤以前に人格評価の対象となります