忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

相手が悪人であっても攻撃してはいけません

 

 当ブログでも度々述べてきていますし各所でも様々語られてきたテーマですが、「悪人に対する攻撃性」における心の機序を整理してみましょう。

 

悪人の人権について

「悪い人は攻撃してもいい」

「悪い人を攻撃することは善」

 相手の特性や属性によって恣意的に扱いを変えること差別と言うのですが、悪人に対する差別は今なお強く人々の心へ根付いているものです。こればかりは社会的動物としての本能に基づく差別感情のため、無くすことはなかなかに難しいと思います。

 もっと言えば、このように考える人もいることでしょう。

「悪人は差別されても仕方がない」

「悪人は差別されて当然」

 人権はすべての人に保障される普遍的な権利ではありますが、他者の人権を侵害した人は同様に人権を侵害されても受け入れるべきだとした応報の理屈は合理的ですし、理解できます。

 

 ただ、法治国家において悪人の人権を制限する権利を持っているのは法執行機関であり一般人ではないことも理解する必要があります。

 個人が勝手に法執行機関の仕事を代行することは認められておらず、たとえ相手が悪い人だからといって人権を無視して物理的暴力や言葉の暴力を個人が振るっていいわけではありません。それはただの私刑であり、法治国家において私的制裁は悪です。

 

 もちろん全ての暴力が禁止されているわけではなく、正当防衛や緊急避難などが法で規定されています。逆に言えば正当防衛や緊急避難などに該当しない暴力は不適切です。

 

心理的機序と誤謬

 そもそも「他人を攻撃してはいけない」とした社会規範はほとんどの人に内面化されているものであり、その規範を乗り越えて悪人を攻撃したいと考える心の働きは何かしらの「攻撃の言い訳」が生じているためだと言えます。

 その「攻撃の言い訳」がどうやって生まれるのか考えてみましょう。

 

 例えば道徳的二元論は一つの理由足り得ます。

 世界を「善」と「悪」に区分する思考は、複雑な現実を単純化することで理解を促進し安心感を与えてくれるものですが、実際の現実はそこまで単純ではなく誤謬が生じます。

 このような枠組みに囚われると、善の無謬性に従い悪人と認定した対象から人権や人間性を剥奪することが自然となり、"浄化"や"正義の執行"のような「攻撃の言い訳」が生まれて私的制裁が正当化されるようになります。

 そしてそれは前述したように不適切です。

 このような心の働きはまったくもって特別なものではなく、宗教的な迫害や戦争などで度々繰り返されてきた誤謬だと言えます。正義中毒や公正世界信念で説明される暴力性もこの項目に該当するものです。

 

 共感も理由の一つです。

 道義に悖る行為や不公正に対して感じる怒りである義憤は、共感性が高い人ほど強く感じるものです。そして義憤は大義名分となり、残念な話ですが善意や優しさが「攻撃の言い訳」として使われます。

 これは例示を出すまでもなく、共感の標準機能です。共感自体が「できる・できない」の二元論的構造を持つ以上、人によっては「共感できないものは敵」とされます。

 

 集団心理も同様に理由となります。

 人は所属する集団への愛着を大なり小なり持っており、敵が現れると仲間意識や同調圧力によって団結と紐帯を示すことが善と感じられるようになります。

 このとき、個人の倫理的な抑制本能は弱まり、むしろ集団浅慮によって敵を攻撃することが仲間内から賞賛されるようになるため、そういった賞賛や党派性の同調圧力が「攻撃の言い訳」として機能します。

 SNSの炎上、政治的な論争、宗教の異端審問など、集団心理による攻撃性の事例は枚挙に暇がないでしょう。人は集団になるとそれだけで暴力的になるものです。

 

 目的論への傾倒も一因です。

 行為の価値はその行為がもたらす結果ないしは目的によって判断されるとする目的論では、「悪を排除できるのであれば私的制裁であっても善」と考えることになります。

 もちろん目的論が有効な場合もあり、正当防衛や緊急避難においては妥当な考え方です。ただ、常に目的論が適用できるわけでもなく、不適切な場合は「攻撃の言い訳」に過ぎません。

 暴力革命はまさにこの論理で暴力を正当化しています。

 

 少し複雑ですがアイデンティティの自己防衛も理由の一つです。

 自他境界が曖昧であったり自尊心が育まれていない場合、国家や所属などに自己のアイデンティティを求める人がいますが、その他にも「正義」や「善」に依存する人もいます。

 正義と同一化した「善の側にいる自分」は強烈なアイデンティティです。

 そして簡単に手に入れることができます。一般的な道徳観に合致する意見や立場を表明して自身の善良な人格を示せばよく、蔑視的な表現ですがいわゆる”美徳シグナリング”をするだけです。

 アイデンティティの骨子となった善なる道徳的優位を保つことが目的化すると、他者を悪の道徳的劣位へと押しやることも厭わなくなります。そのためには悪を攻撃することが手っ取り早く、そうやって「攻撃の言い訳」が簡単に生じます。

 

 いずれにしてもこれらは「攻撃の言い訳」に過ぎず、不適切です。悪人の人権が制限されることは正義ですがそれをするのは私たちの役割ではありません

 

結言

 正義の味方として悪を排除しようと思う、それは立派なことです。善行となるかはさておき、少なくとも善心を持っていると言えるでしょう。

 しかし私たちはせいぜい正義を擁護する正義の味方であって、正義そのものではないことに注意する必要があります。勝手に悪を断罪する権利はなく、相手が悪人であっても攻撃してはいけません。