忘れん坊の外部記憶域

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「資本主義が環境を破壊する」という物語の罠

 

 「資本主義が環境を破壊する」

 この言葉は、現代の言論において強力なナラティブとして流通しています。

 大量生産、大量消費、そして資本の利益至上主義。これらが森林を削り、海を汚し、空を濁らせてきたのだとした物語は、歴史的にも感覚的にも説得力があり馴染むことでしょう。

 

 しかし、少し立ち止まって考えてみる必要があります。

 では、資本主義ではない経済体制であれば、環境破壊は生じなかったのでしょうか?

 歴史を見れば答えは明白です。そんなわけはありません。

 

統制経済の環境負荷

 資本主義による自由経済の反対、アンチ資本主義である共産主義体制下の統制経済を事例として考えてみましょう。

 統制経済では生産物の数量が計画の中心に置かれます。大量生産・大量消費の真逆として必要な分だけを生産することは、恐らく環境負荷が少ないだろうと単純に考えることができます。

 しかし「何をどれだけ作るか」を管理対象とした場合、「どれだけの資源を使うか」は二の次になりがちです。

 

 自由経済では「どれだけ儲かるか」が管理対象です。そのために生産の最大化が図られますが、同時に投入資源の最小化も図られます。10を使って100を売るよりも、1を使って100を売るほうが遥かに儲けが大きくなるためです。ジェボンズのパラドックスによって1000を作ろうとするのではないかと懸念する声もあるでしょうが、市場の需給バランスによってある程度は調整されますし、ジェボンズのパラドックスは全てに適用されるわけでもありません。

 対して統制経済では「何をどれだけ作るか」が管理対象のため、投入資源は重視されません。10を使って100を作ろうが、100を使って100を作ろうが、必要な分の生産で帳尻を合わせることが優先されます。

 また、必要な分だけを作ることは実際には上手くいきません。農産物一つ取っても、来年の必要量や気候を完全に予知してリソースを手配することなどできず、実際には不足して餓死者を出したり、それを避けるために過剰生産を行うことになります。

 

 つまり統制経済では投入資源の最適化が働かないため、過剰投入や過剰生産が常態化します。

 そしてそれらが資本主義の大量生産・大量消費よりも害が少ないと考えるのは少し安易な考えです。ソ連によるアラル海の干上がり、中国による黄河の汚染など、統制経済は環境破壊も多数起こしてきました。

 よって少なくとも「資本主義が環境を破壊する」とした命題は「資本主義以外であれば環境を破壊しない」ことを意味しません。むしろ歴史的に見れば「資本主義以外も環境を破壊する」と言えます。

 

ナラティブが強固な理由

 「資本主義が環境を破壊する」としたナラティブが強固な理由は比較的単純に説明できるかと思います。

 例えば情報の入手性です。自由主義諸国では情報公開が進んでおり、環境破壊の記録が豊富に残っていますし、国民が公害問題を訴えることも可能です。対して統制経済を実施していた強権的国家では情報統制が行われており破壊の実態が見えにくく、また国民からの訴えも不可能でした。

 情報の近接性も一因でしょう。環境運動の多くは自由主義から生まれました。そのため、批判の対象が身近な制度に集中したものと考えられます。

 倫理的な分かりやすさも説明になるかと思います。資本主義とは要するに欲望の構造であり、「人間の欲望が環境を破壊する」とした語り口は倫理的な人々の琴線に触れめ腑に落ちやすいものです。反対に統制的な活動、すなわち「より良くしようとする人間の活動が結果的に環境を破壊する」ような物語は心情的に受け入れられ難いのでしょう。

 

 他にもあるでしょうが、何はともあれ資本主義による環境破壊の物語はナラティブとして成立しやすい構造を持っています。

 それが現実を単純化し過ぎているとはいえ。

 

結言

 もちろん、だからと言って資本主義がベストだと言いたいわけではありません。資本主義が環境問題に対して完全な解決策を提供しているわけでもなく、税による外部性の内部化や技術革新による効率化などは進んでいるものの、環境破壊は依然として深刻な問題です。

 しかし、環境問題は資本主義を捨てて統制経済へ進めば解決するような問題ではありません

 資本主義以外の経済体制も同様に環境破壊を起こす以上、現状を投げ出すのではなく、仕組みの欠陥を認識して修正可能な改善策を模索することこそが現実的で倫理的な選択です。

 少なくとも、ナラティブを疑わず知的誠実さを忘れて安易な解決策を喧伝することは、あまり真摯な姿勢ではないと思います。