忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

それでも

 

「人を好きになることは、本質的には差別なんだよ」

 アイスコーヒーのストローをくるくると回しながら、先輩はぽつりと呟いた。

 僕は思わず顔を上げて彼女を見つめた。午後五時、駅前の喫茶店。窓際の席で向かい合う先輩は、特に理由もなく外を眺めている。静かな店内に氷の音だけが淡く響いていた。

「それは違う、と思います」

 胸の奥をざわつかせる言葉だった。形になりきらない感情が音になって漏れた、そんな拙い否定。

「そう? でもさ、何十億人の中からある一人を選ぶってことは、他の何十億人を選ばないってこと。愛する家族を優先するってことは、それ以外の人を優先しないってこと。それって、差別じゃない?」

 自分の中で何度も反芻してきた問いを、ふとした思いつきで今さら誰かに投げかけてみたような、そんな口調だった。

「それは、なんて言うか普通のことで、別に悪いことじゃないと思います。差別はもっと、不公平だったり、偏見だったりすることじゃないんですか」

「でも、選ばれなかった側から見れば不公平だよね」

「それは、そうかもしれませんが」

 言葉が宙に浮いたまま、うまく着地できなかった。先輩の言葉はどこか冷静すぎて、感情の居場所を奪っていく。

「でも、それって自然なことじゃないですか? 誰かを好きになったり、家族を大切にしたり。そういうのは差別じゃなくて、当たり前の感情で」

「うん。でもね、自然な感情が差別を生むんだよ。たとえば、見た目が好みだったとか、話し方が心地よかったとか、一緒に住んでいるからとか。そういう感情的な好みって、結局は自分の中だけの基準でしょ?」

 あらかじめ用意していた言葉を並べるように、先輩はゆっくりと話す。まるで僕が反論できないことを知っていて、わざとその隙間を埋めていくようだった。

「それに、合理的とか偏見とか不公平とか、そういうのってすごく不安定だよ。今日は良くても、明日はダメになるかもしれない。昔は差別じゃなくて、今は差別になることもある。そんな揺れる基準よりシンプルに、違う扱いをすることを差別と呼んだほうが、すっきりするよ」

 そして、先輩は言った。

「みんなが許容している差別を“区別”って呼んでるだけで、それはやっぱり差別なんだよ」

 僕は言葉に詰まった。先輩の言葉は論理的に聞こえるが、正しいかは分からない。そして、ひどく冷たい。彼女の顔だけは、いつものように少し茶化すような笑みを浮かべていた。

「じゃあ、人を好きになっちゃいけないんですか?」

「ううん、好きになっていいよ。人間だもの」

 先輩はそう言って、ストローを口に運んだ。氷がまた、カランと鳴る。

「でも、それを“きれいなこと”だと思い込むのは、ちょっと危ういかもね」

 僕は黙ってカップの中のミルクティーを見つめた。反論できない。上手い理屈はあるのかもしれないけど、きっとすぐには見つからない。

 それでも。

 カップの縁に指を添えながら、そっと息を吐いた。窓の外では夕方の光が街を少しずつ金色に染め始めている。

 その光の中で、彼女の横顔がほんの少しだけ遠くに見えた。

 ミルクティーに口をつける。ぬるくなった甘さが喉を静かに通り過ぎていく。

 それは、どこか後ろめたくて、でも、温かかった。