平等性を重視して弱者やマイノリティを擁護するリベラルは、これからの少子高齢化社会で"少子"と"高齢"のどちらに付くべきか。
有限の社会リソースを分配するにあたって、私たちは誰を救うべきだと選別し、誰を見捨てるべきか。
その説明責任を果たせるかどうかが「倫理的な人道主義者」と「横暴な権力者」を峻別するのかもしれない。
定性的な弱さ
リベラリズムの厳密な定義をすることはとても難しいのですが、今回はとりあえず人権・平等・寛容などを重視して弱者やマイノリティを擁護することをリベラルとします。
このような条件において、今後も進んでいく少子高齢化社会でリベラルは若者を擁護すべきでしょうか、もしくは高齢者を擁護すべきでしょうか。
少子高齢化社会において高齢者はもはやマイノリティではありません。
しかし一般論として若年と高齢者を比較すれば高齢者が弱者とされるでしょう。
この話が存外に難しいのは、定量と定性の差です。
マイノリティとマジョリティは定量的な判定が概ね可能であるのに対して、個人や属性の弱者性は定性的です。
例えば身体的な強さで言えば高齢者は弱者です。しかし経済的には金融資産残高の世代比率を見れば分かるように高齢者が遥かに強者となります。就労負担や政治的発言力で言えば若者が弱者ですし、社会的関係性では高齢者が弱者となるでしょう。
ちなみにこれは元々の問い自体が卑怯で、本来はどちらかではなく「属性によらず弱者を擁護する」ことこそが平等でリベラル的です。
しかしそもそも弱者性自体が定性的な概念であり、誰がどの程度弱者であるかを数値化しての比較はできませんので、結局は属性で線引きせざるを得なくなります。
倫理的優先順位を決定する権力
社会的リソースが無限にあれば手当たり次第に救援するだけの話ですが、現実には社会的リソースは有限であり、私たちの社会は「誰を優先的に救うか」、もっと露悪的に言えば「誰を優先的に見捨てるか」を取捨選別する必要があります。
この時、弱者を擁護するリベラルは定量的に識別できない弱者をどうやって決めるか。ここに私は説明責任があると考えます。
何故ならば、社会的リソースの分配を決定することは明確に権力だからです。
税をどう分配するかを決める政治権力者が説明責任を負うことと同様、社会的リソースの倫理的優先順位を提唱・設定する人は権力者であり、権力を行使するにあたって説明責任を果たす必要があります。
何故その属性を優先的に救うべきなのか、そして何故あの属性は優先的に見捨てられているのか。
その説明を放棄して合意や同意を得られないような判断をした時、リベラルは人道や平等の旗を毀損して横暴な権力者へと成り下がり、倫理的優先順位の決定は倫理的ではなくむしろ恣意的な差別へと陥ることでしょう。
結言
自らの権力性に無自覚で好き勝手自由に「誰が弱者か」を線引きすることは、少なくとも人権や平等を重視するリベラルのやり方ではありません。
私たちはせめてどう線引きを行い誰を見捨てることに決めたかを誠心誠意説明する責任を持ちます。