日本で選挙の話題があると、中国人の同僚がよく言うことがあります。
「選挙なんてあまり意味が無いよ、テレビで見たり演説を聞いたりしたってその政治家のことをしっかりと理解できるわけないんだから、ちゃんとした政治家を選べるとは思えないな」
最終的には思想信条の違いですので私も特に否定はしないのですが、民主的な選挙の無い国で育った彼のこの意見には一理あり、そして同時に絶対的ではないことを整理してみましょう。
言い分の正しさと選挙の見方
少なくとも冒頭の理屈は現実の一側面を適切に捉えていると言えます。テレビで見たり演説を聞いたりした程度でその政治家の本質や人格を明確に理解できるはずもありません。民主主義の選挙は道徳や能力ではなく、実質的に人気投票となります。
ただ、それは選挙に対する視点の違いに過ぎません。
もちろん適切な人が政治を行うべきだとした儒教的価値観に基づいて、選挙を『ちゃんとした人』を選ぶ行為と捉えることが語義的にも正道です。
しかし選挙とは同時に、別の候補者を選ばない行為です。そしてこちらのほうがむしろ現時点での選挙の本質を捉えていると言えます。
メディアで報道される政治家の動向や言論を見れば分かるように、主に報道されるのは「その政治家がどういった能力や実績を持っているか」ではなく「その政治家がどんな失言や不祥事をしたか」ばかりです。人々はそういった報道を見て、どの政治家を選ぶかではなく、どの政治家を選ばないかを判断します。
よって『ちゃんとした人』を選ぶ行為としては不十分ですが、『ちゃんとしていない人』を選ばない仕組みとして選挙は機能しています。
もちろん『ちゃんとしていない人』がすり抜けることもありますが、何度か選挙を繰り返していれば確率的に弾かれますし、何度も当選するのであればその政治家は見えていないだけで『ちゃんとした人』の可能性が高いです。
それこそ冒頭の言葉、「テレビで見たり演説を聞いたりしたってその政治家のことをしっかりと理解できるわけない」はまさに真であり、その政治家が『ちゃんとしていない人』だと一投票者が判断できる材料は本来不足しているのですから。
選挙で選ばれる人は、たとえ当人が駄目に見えようと、本当に駄目な人だとしても、地盤看板鞄の何らかを差配して世間を動かし支持を集めるパワーを持った陣営、すなわち政治ができることの証明です。
話は逸れますし少し厳しい視点ですが、地盤看板鞄はそこそこに政治の本質です。人々の代表として意見を取りまとめてお金を分配するのが政治家の仕事であり、地盤看板鞄のいずれも持たず選挙で選ばれない人は根本的に政治家としての資質に欠けていると言わざるを得ません。
要するに学校の入試試験と同じで、選挙は素質のチェックも兼ねています。選挙にすら通れないならばその先もできないだろうと判断されるのは仕方がないことです。
権力の正当性
もう少し異なる視点を提示しましょう。
選挙の目的とは、誰を選ぶか選ばないかだけではなく、政治権力に正当性を与えることです。
権力の正当性とは人々の合意によって承認されます。
そして合意の基となる条件は様々です。
徳治政治の時代の中国のように為政者の道徳心を基準に合意を得られる場合もあれば、王朝や宗教的権威の継承では人々がそれに合意していれば正当性となります。或いはアフリカの軍閥や氏族社会のように軍事力の大きさで合意が得られる場合もありますし、現代中国のような一党独裁の官僚制度では統治の質自体が合意の基と言えます。
民主主義国家における選挙もその一つで、選挙で選ばれたかどうかが権力の正当性です。選挙を正当性の合意として持つ集団では、ミャンマーの軍政のようにたとえ選挙以外の方法で政治権力を奪ったとしてもその権力に正当性を持たせることができません。
選挙を源泉とした正当性はその他の実力主義的な合意と比べれば少し柔軟です。
これは先述したように、選挙は選ばない仕組みでもあり、正当性を与えた権力を引き摺り下ろすことができるためです。
もちろん他の仕組みでも権力の正当性を付け替えることはできます。実力主義ですので、王様を排除したり、政敵を粛正したり、強大な軍事力で支配すれば政治権力を確保できるでしょう。
それらの仕組みと比較して選挙は血を流すことなく政治権力の付け替えが可能な点で、権力の正当性を確保する仕組みとして選挙は穏当ではないかと思っています。
結言
本質的な問いとしては、権力者は実力主義的に選ぶべきかどうか、です。
最終的には思想信条の違いであり、粛清や闘争を経て実力的に優れた人が統治すべきだと考えることも良いですし、選挙で不適切な人を弾きつつ穏健に権力者を選ぶことも良いでしょう。私は後者を好みますが、前者を好む人もいることは理解できます。