正義は常に群衆の側にある。
それはいつか見直される時期が来るだろうか。
そもそも論
先日、以下のような言説を見かけました。
「対立した問題に対して、事実関係が不明な時はまだ静観すべきであり勇み足で攻撃すべきではない、事実が明らかになった時に悪いほうを叩けばいい」
冷静な意見のように見えるかもしれませんが、私個人の考えとしてはそもそも叩くなと思っています。
なぜ第三者の他人がわざわざ人様の揉め事に首を突っ込んで誰かを叩く必要があるのでしょう。そんなものは当事者で解決すべき事柄です。
被害者の救済やケアであれば第三者が介入する余地はあるでしょう。或いは啓蒙的な教訓の抽出や社会的構造の変革を第三者が議論することにも意味はあります。緊急性が高い場合、近くにいる第三者が惨事を食い止めることも状況としてはありえます。
しかし第三者が悪人を叩く必要はありません。それは法治の否定であり、辻や河原で縛られた罪人に石を投げているようなものでやっていることが近代以前のレベルです。そういうのは良くないと法律が整えられていったのですから、わざわざ先祖返りする必要はないかと思います。
もちろん第三者が悪人を叩くことに一定の意味は見出せます。
それは例えば義憤や公憤、モラル維持のための社会的制裁、憂さ晴らしや娯楽的要素が理由として挙げられます。
しかし義憤や公憤はそれこそ公共の改革や社会への啓蒙とした形で発露されるべきものであって「悪人を叩くこと」が正当化される所以はありませんし、モラル維持のためと言いながら私的制裁をするようではむしろモラルが崩壊しています。「悪いことをした子を殴って躾けよう」と考えるのに類似した気持ちがあるのかもしれませんが、私たちは社会の親でも先生でもありませんし、体罰の悪影響は科学的に説明が可能です。憂さ晴らしや娯楽のために悪人を皆で吊るして処刑することは法治の否定であり現代では許容されないことが望ましいでしょう。
結局のところ悪人を攻撃することが法治を超えて正当化される理由はありません。
正義はどこにあるか
なにより私が好みではないのは、群衆の陰に隠れて悪人を攻撃することは卑怯だと考えるためです。これは匿名か否かに関わらず、大衆の側に立って他者や他の集団を攻撃する行為は卑怯だと考えます。
多少の極論ですが、民主的な社会集団において正義とは大衆です。
独裁や専制では支配者が正義を定義しますが、民主制では大衆が正義を定義します。大衆にとってそれが善であれば正義ですし、全体にとって望ましくなければ悪です。無辜の民を救う"正義の味方"は”正義”そのものではなく"味方"であり、正義は無辜の民である大衆と定義されます。
本来であれば民主的な多数決による決定は善悪ではなく是非の判定に過ぎないものですが、残念ながら社会はその誤謬から完全に抜け出すことはできず、皆が決めたことが"是"ではなく"善"だと判定されがちです。
これを換言すると、大衆の側に立って他者や他の集団を攻撃する行為は正義を独占することと同義です。倫理や道徳的に正しいかどうかの査定が行われず、ただ大衆の側に立つだけで正当性を自動的に獲得します。
そうやって正義を独占した人は全ての言動が無制限に許容されると誤認するようになり、暴力や私的制裁ですら自己認識の中で正当化されます。誰もが理解できる「人を攻撃してはいけません」とした最低限の倫理すら「しかし相手は悪である」と勝手に免責してしまう心理はまさしく自らが正義の側に立っているとした認識からもたらされるものです。
自らは攻撃を受けない無敵の立場へ立ち他者へ一方的に私的制裁を行う人は、辛辣ですが卑怯者と呼称せざるを得ません。
このような「善意の群衆」による社会的制裁は様々な暴走を招いており、古くは魔女狩りやフランス革命後の粛清、人種差別や民族差別、現代でもネットリンチやキャンセルカルチャーの形で現れています。
反撃を許容しない正義の立場による一方的な攻撃は倫理的に正義か悪かと問うならば、曇りない正義だとするには少し汚濁に塗れているでしょう。
結言
つまるところ、これは集団心理を人類が乗り越えることでしか解決できません。「皆で決めたのだから正義だ」とした誤謬を抜け出して理性による倫理を称揚することが必要です。
これは著しく難しい道です。人は正義を免罪符とすることで「人を攻撃してはいけません」とした最低限の倫理ですら容易に手放すことができます。小さなところではSNSでの誹謗中傷、大きなところでは戦争ですら。
大仰に聞こえるかもしれませんが、何か理由があれば他者を攻撃することは許容されると考えることは差別や戦争と地続きの考えであると私は考えます。
それも含めて、正義を大衆が定義することの是非は見直しを図る必要がありそうです。