忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

手前味噌で食べる自給自足の味噌汁

 

 吃驚するくらい自画自賛になるのですが、意外と私は思考体力があるのではないでしょうか。

 

得意かどうかは他者評価だが、好きかどうかは自己評価

 忙しくて疲れている、或いは疲れていて忙しい、どちらがどちらか因果関係が分からなくなりつつある程度にはてんてこ舞いの気分であり、実際には気分だけで肉体の疲労はそこまででもないのですが、何はともあれセルフ労い的なイベントを自主開催してちょっと自己肯定感を高めるための褒めモードに入ってみます。たまにはそんな娯楽に興じてみるのも面白いでしょう。

 まあ、自己肯定感は元々不足していないのではありますが。

 むしろ過分ですので他所様に販売したいくらいではありますが。

 

 閑話休題。

 戯けたことも高頻度で垂れ流すものの、なんだかんだ4年以上毎日ブログを更新しており、記事の中身も一応それっぽい雰囲気での論考っぽいような評論っぽいようなエッセイやらオピニオンやら分からない、もはや定型化されたフォーマットに当てはめることすら烏滸がましい、そんな記事を投稿し続けることができています。

 もしかしたらこの実績は、私にそれなりの思考体力があることを示唆している可能性があると言えなくもないかもしれません。

 もちろん言い切ることはしません。

 何故ならば得手不得手は相対的なものであり、本来は自己評価だけで完結するものではないためです。得手不得手の自己評価自体は可能ですが、結局は他者評価の参照が必要であり、本質的には他者評価に依存すると言っていいでしょう。

 

 全然真っすぐ褒めていません。

 褒めモードとは一体。

 

 自分を褒める時は他者評価に依存しない自己評価で完結するものに頼ることが良いでしょう。

 例えば、私は思考することが好きです。

 ですので、好きなことを継続できていて偉い!

くらいの褒め方がちょうどいい塩梅です。これなら自己肯定感を高めることに寄与できます。

 

 その点で言うと、自画自賛はちょっとリスキーな気がします。自分で書いた絵を自分で褒めることはできますが、それを他者から褒められなかった場合は認知的不協和が生じてしまうことでしょう。

 それを避けるためにはやはり"自画"を褒めるよりも"自我"を褒めたほうが安全です。絵を描くことが好きな自分を褒めるだけであれば横やりなんて入りようもありません。

 

 ちなみに私は絵を描きません。

 引くほど下手っぴなので。

 CADを使わせてもらえれば図面は描けます。

 

迷子の思考

 このブログも、もうちょっとテーマを絞って真面目に考察を積み増して分散している考察を統合して書籍へまとめるようなやり方で整理した論考にすればもう少しちゃんとした形で思索を発表できるような気もしなくはないのですが、それは私向きではありません。

 私としては、その時々での思索を速やかに記事へしたためて出力したい、そうしなければすぐに全部忘れてしまうから、という気持ちです。

 誰かにうちのブログの記事群を体系化して整理してもらえないかと夢見ています。流石に乱雑過ぎて自分で確認したい記事を探せなくなり困っていますので。

 なお、AIに頼んでも拒否されました。

 

 意図的に思考を分散させているのではなく、ただ思考そのものが散乱しているだけです。書こうとしたはずの言葉、残そうと思った思索、痕跡も無く脳の深淵に堕ちて呑まれて消えていった思考がどれほどあったか、もはやそれも思い出すことはできません。

 じゃあ一体何ならば思い出せるのか、それも思い出せません。

 

結言

 毎回自分で書いていてなんですけど、緒言もないのに"結言"って、私はいったい何を考えているんでしょう。

 なんとなく「まとめ」は野暮ったい気がして、「結論」も違うし、「終わりに」や「総括」とかも違うなと思って、何年も適当に「結言」でごまかしています。

 まったくもって真っ当な意味はありません。「そろそろこのお話は締めますけども、見出しが思い付きません」くらいの意味です。

 

 ・・・適当に生きてて偉い!