狂人の発想。
閃いてしまったのだから仕方がない
ふと、道を歩いている時に「仏教って要するになぜなぜ分析だよな?」と天から降ってきたので、真面目に考えてみることにします。
閃いてしまったのだから仕方がありません。
なぜなぜ分析とは、問題や課題に対して「なぜ?」を何度も繰り返して根本原因を掘り下げていく手法です。工学系の人間の経典である由緒正しいトヨタ生産方式の手法の一つであり、私のブログでもなぜか何度か取り上げたことがあります。
「なぜ」私はなぜなぜ分析をブログ記事で取り上げたのか?
・・・といったように、「なぜ」を繰り返していけば根本原因に辿り着けるだろうとした、とても簡単に見えて思った以上に奥深いやり方です。
次に仏教とは、まあ悟りを開いて苦や煩悩から解放される道と言いますか、苦の輪廻からの解脱と言いますか、そんな感じです。サラッと解説するのはさすがに気が引けるのでお茶を濁します。詳細はお坊さんに聞いてください。
類似性の考察
仏教と「なぜなぜ分析」はもちろんまったく別のものですが、目的とプロセスに類似性を見出すことができます。
まず第一に、これらはどちらも原因の連鎖を探る行為です。
仏教では縁起に基づいて全ての存在や出来事に因縁が存在すると考えるため、「人はなぜ苦しむのか」「それは執着があるからだ」「なぜ人は執着をするのか」「それは諸行無常を理解していないからだ」「なぜ人は諸行無常を理解していないのか」といったように、理詰めで根本原因を追究しています。
これは実になぜなぜ分析的であると言っても過言ではないでしょう。
いえ、ちょっと過言かもしれませんが。
次に、これらはどちらも根本的な解決を目指す行為です。
仏教は個々別々の苦しみを弥縫策的に対処するのではなく、苦しみを生んでいる根本的な原因を断つことを目的として、八正道などの実践を通して解決を図る思想を持っています。
なぜなぜ分析も同様に、表面化した問題への対症療法ではなく、再発防止のために根本原因を明らかにすることが目的です。
これは同じと言ってしまってもいいのではないでしょうか。
さらに言えば、これらはどちらも観察と客観性を是としています。
仏教では瞑想や内観によって自らの心の動きや執着を観察し、「なぜそれに執着するのか」などを客観視して問い続けることで根本原因を追究します。
なぜなぜ分析も同じです。客観的に事象を観察して、感情や思い込みを排して論理的に原因を追究します。
つまり仏教となぜなぜ分析は同じものです、きっと、多分。
きっと役に立つ
話をさらに飛躍させましょう。
工学者は仏教を学ぶべきです。
宗教の勧誘ではありません。
そもそも私は「宗教としての仏教」はそこまで興味なく、「哲学としての仏教」を好みます。
ただただ単純に、仏教的手法は工学に応用が可能である、そうしたプラグマティズムに基づく世俗に塗れた思考で仏教の学びをおススメします。
仏教的な観点を学ぶと、それこそ根本原因(Root Cause)を追求する癖がつきますし、表面的な問題への対処ではなく再発防止を旨とするような意識付けが可能です。
仏教の瞑想は観察と仮説と検証の繰り返しで自らの執着や無明を見つける作業であり、このやり方もある意味で工学的な分析と同じでしょう。
他にも、仏教的実践をすれば次のような工学的メリットがある、かもしれません。
【瞑想】観察力を鍛えることで問題の兆候を早期に察知できる
【無常】システムの変化や劣化を受け入れやすくなる
【無我】チームの責任分担やエゴの衝突を減らせる
【因果】複雑系の関係や構造を深く捉えられる
【悟り】こだわりや固執を減らして虚心坦懐に向き合える
このように、良いことばかりです。
やっぱり宗教の勧誘みたいになってきました。
結言
「仏教はいいぞ」と、まるで聖徳太子の十七条憲法みたいなことを述べてみました。数年前になぜか思いつきでやってみた十七条憲法の現代語訳記事はこのための布石だった可能性が無きにしも非ず、かもしれません。